スタッフ
監督:フランソワ・トリュフォー
製作:オスカー・リュウェンシュタイン
脚本:ジャン・ルイ・リシャール、F・トリュフォー
撮影:ラウル・クータール
音楽:ベルナール・エルマン
キャスト
ジュリー / ジャンヌ・モロー
コリー / ジャン・クロード・ブリアリ
ブリス / クロード・リッシュ
コラル / ミッシェル・ブーケ
モラン / ミッシェル・ロンデール
ダルロー / ダニエル・ブーランジュ
フェルグス / シャルル・ドネー
ベッケル医師 / アレクサンドラ・スチュアルト
ダヴィド / セルジュ・ルソー
日本公開: 1968年
製作国: フランス カロサ・フィルム作品
配給: ユナイト
あらすじとコメント
今回も映画評論家から監督へ転身したフランソワ・トリュフォーにしてみた。彼が傾倒していたヒッチコックの影響がストレートにでたサスペンス・スリラー。
フランス、コート・ダジュール。散々、女遊びをした挙句、結婚を決めたプリスのところに、謎めいた美人ジュリー(ジャンヌ・モロー)が、やって来た。折しも婚約パーティーの最中であり、彼の友人コリー(ジャン・クロード・ブリアリ)も、彼女を見染めた。
かつて弄んだ女だろうか。否や、これほどの美女は忘れるはずがない。婚約者がいる中で心が乱れ始めるプリス。ジュリーは、そんな彼をバルコニーに連れだした。直後、プリスは転落死し、彼女は忽然と消えた。
数日後、近くの市に住む銀行員コラル(ミッシェル・ブーケ)の元に、音楽会のチケットが届けられる。恋人はおろか、知人も少ないコラルは送り主が美人だと知り、心をときめかして劇場に向かった。
そこにいたのは・・・
ジャンヌ・モローの存在が光るファム・ファタール(悪女)もの。
原作はコーネル・ウーリッチとウィリアム・アイリッシュという二つの名を持ち、数多くが映画化されたスリラー作家によるもの。
一見、何ら関係のなさそうな男たちが殺される連続殺人事件に絡むひとりの美女。男たちの繋がりと女の目的は何か、というスリラーなのであるが、どんでん返し的内容ではなく、徐々に内容が明らかになって行くという進行。
小説自体は1940年に発表されたものなので、時代性を感じる部分もあるが、トリュフォーは、敢えてひねった作劇を用いず描いて行く。
ただ、随所に「こだわり」を見せる。主人公が着る服が白と黒のモノトーンのみであったり、燦々と輝く陽光の明るさの中での殺人や、以後、暗がり、曇天といった殺人場面での天気への配慮。
そして、何よりも彼が大好きだったヒッチコックを完全に意識した、ロケとセットの繋ぎの不自然さや、カット割や編集のリズム。ただし、そこは映画評論家からの転身であるので、どこか説明臭さと、理念的というか観念的進行スタイルをも感じる。
それでも、アメリカの犯罪映画でもなく、フランス的フィルム・ノワールでもないという作劇。そこに、トリュフォーのこだわり、作家としてのオリジナリティへの挑戦をも感じさせる。
しかし、本作での最大の成功は、ほぼ出ずっぱりのジャンヌ・モローの圧倒的な存在感である。決してスタイル自体は良くないが、独特のオーラがあり、妖気プンプンでありながら、底冷えのする振る舞い。
確かに、ファム・ファタールといえば、連想するハリウッド女優は数多い。しかし、ジャンヌ・モローには、ジャンヌ・モローでしかあり得ない存在感があり、それは決してハリウッド女優が醸し出せる雰囲気ではない。
ゆえに、本作でのトリュフォー演出は、他のサスペンス・スリラー作品で、必ず入れる、彼自身が好きなアメリカ映画の犯罪映画風味とはまったく違うスタイルにしたのだろうと推察する。それほど、モローの存在は大きい。
徐々に明らかになる被害者同士の関連性や、主人公の生き様と、真の目的。計算し尽くされた画面構成と進行。だが、それらは決して、観客を驚かせるような流麗なカメラ・ワークや、意表を付くショッキングな直接的映像で綴られない。
そこにヒッチコックとの違いを強調させようとし、逆に、ヒッチコックを意識させることとなっている。完全なる理論家としての『作為性』を感じた。
あくまで、時代性を感じさせる原作をそのまま踏襲させつつサスペンスを盛りたてようとする。そこに違和を感じるか、作家性を嗅ぎ取るか。間違いなく、スリラー映画として、それまでとは違う演出に砕身した印象。
それが成功している部分もあり、逆になったと感じる部分もある。トータルとして、何故か、こじんまりとまとまったと感じた。しかし、結果、それこそがトリュフォーが愛してやまない「アメリカのB級犯罪映画」の匂いなのだろうか。
それにしては不思議なティストでもある。