スタッフ
監督: ウィリアム・ワイラー
製作: ジャド・キンバーグ、ジョン・コーン
原作: ジョン・フォウルズ
脚本: スタンリー・マン、ジョン・コーン
撮影: ロバート・サーティス(ハリウッド)
ロバート・クラスカー(英国)
音楽: モーリス・ジャール
キャスト
クレッグ / テレンス・スタンプ
ミランダ / サマンサ・エッガー
叔母ア二ー / モナ・ウォッシュボーン
ノード大佐 / モーリス・ダリモア
銀行の同僚 / ゴードン・バークレー
銀行の同僚 / デヴィッド・ハビランド
看護師 / エディナ・ローナウ
日本公開: 1965年
製作国: アメリカ W・ワイラー・プロ作品
配給: コロンビア
あらすじとコメント
今回も、イギリスが舞台にして、端正な青年が登場する「いびつ」なスリラー映画にした。名匠ウィリアム・ワイラーが新境地を開いた意欲作でもあり、秀作。
イギリス、ロンドン。とある美術大学に通う画学生ミランダ(サマンサ・エッガー)。その彼女を舐め廻すように尾行し、日常の行動を見つめるひとりの青年。
彼は、地方にある銀行に勤めるクレッグ(テレンス・スタンプ)。引っ込み思案的性格が強いのか、銀行でもからかわれ、それでも、一切の反抗をせず、ただただ、そこに生息しているという風情。両親や、兄弟の存在もないようだ。
ある日、唯一の親戚と思しき叔母が、大騒ぎで銀行にやって来た。何と、彼が気まぐれで購入したフットボールの賭け籤が見事的中し、71000ポンドの配当が当たったのだ。
その瞬間から、彼の人生は一変した。しかし、それは彼の性格が社交的になったということではない。クレッグは、人里離れた田園地帯の旧宅を購入し、別棟にある半地下のセラーに、ベッドや家具を入れ、電気や水道を敷くなど力を入れた。それは、とある目的のためであった。
その出来栄えに静かに満足すると、クロロホルムを手に入れて車に乗り込んだ。
目指したのは、ミランダの後ろ姿・・・
異色のホラーとも取れるスリラーの秀作。
家族もなく、自我の表現を完全に封じ込めた、というよりも、ひっそりと「ひとりだけ」を確立した青年。当然、全てが自己完結ゆえに「いびつ」。間違いなく女性と付き合ったこともない男。
趣味は、小学生時代からの『蝶の収集』。それは、現代の「バーチャル」とは全く違う、完全に動かない『標本』として愛でる対象物だ。
しかも、絵画や切手、まして稼働するミニカーや鉄道模型とも違い、かつては「生きていた」生命体である。確かに、何千匹というカラフルな種類の蝶がレイアウトされた標本は美しい。だが、そこにこそ際立つ「気色悪さ」。
そんな彼が、初めて異性を強烈に感じた生身の女性に興味を持つ。しかし、彼は、言葉を交わす術を知らない。考える事は、いびつな方向へ集約されて行くのは明白である。
だが、単純に殺して、針に刺して鑑賞するのではない。あくまで生きたまま、近くに置いておきたい。
それが、正常な価値観であるのか、社会的常識というもの全てが正道であり、絶対的なものなのかと自問自答したには違いない。
しかし、誰にも相談できず、しかも貧乏な出自ゆえ、大した学歴もなく、ずっと劣等感に苛まれている。
そんな青年が、ある意味、普通に生きて来た女性を誘拐監禁する。
一体何が目的なのか。明確な欲望があるのか。それであれば、暴行強姦なり、殺人でという短絡的犯行になるはず。
そんな単純な性格でないから、いびつで身の毛もよだつ映画なのだ。
本作は、ほぼこの監禁する側とされる側の二人の駆け引きに終始する。そこに持って来てのワイラーである。しかも、舞台はイギリス。完全にヒッチコック作品、特に主人公の青年のキャラクターからみて、「サイコ」(1960)や、前回扱った「血を吸うカメラ」(1960)を意識していると感じさせる。
しかし、そこはさすがのワイラーである。敢えて、ヒッチコック的なことを排除し、かといって沈美的なマイケル・パウエル風でもないという独自性をだした画面構成やカメラ・ワークで綴っていく。
ちょっとしたことがサスペンスを生みだす展開など、逆にヒッチコックが、本作以降に発表した「フレンジー」(1972)に影響を与えているとさえ感じた。
端正な二枚目だからこそ、その異常性が際立つテレンス・スタンプと、どこか奔放さを醸し出しながら、背伸びをしてると思わせるサマンサ・エッガーの新人二人も『何か』に取り憑かれたような、絶妙な演技を披露している。
今風で言えば『オタク』というキャラで済ませられるし、もっとショッキングな映画も数多く存在する。
しかし、そこに不思議な『気品さ』を伴う作品は圧倒的に少ない。
その中の貴重な一作であると言えよう。