スタッフ
監督: ジャック・カーディフ
製作: スティーヴ・パーカー
脚本: ノーマン・クラスナー
撮影: 中尾駿一郎
音楽: フランツ・ワックスマン
キャスト
ルシー(ヨーコ) / シャーリー・マクレーン
ファーリィ / イヴ・モンタン
ルイス / エドワード・G・ロビンソン
ムーア / ボブ・カミングス
かずみ / 谷洋子
高田 / 斉藤達雄
料理屋の女将 / 清川玉枝
茶道師範 / 早川一郎
カメラマン / 牧嗣人
日本公開: 1962年
製作国: アメリカ パラマウント作品
配給: パラマウント
あらすじとコメント
マイ・フェイバリット女優のひとり、シャーリー・マクレーン。今回は異色作にしてみた。それは、こちらが日本人だからという『ことわり』が付くのだが。
アメリカ、ロサンゼルス。映画監督のファーリィ(イヴ・モンタン)は、自分の人気は、妻で女優のルシー(シャーリー・マクレーン)のお陰だと実感していた。事実、彼の映画の主演は常にルシーだった。
そのことにジレンマを感じていた彼は次回作を彼女ナシで企画した。何とオール日本ロケで「マダム・バタフライ」(蝶々夫人)を日本人女優で映画化しようと。しかし、会社側はルシー抜きの企画に難色を示した。
そこで予算を半分に削り、彼を監視するためにプロデューサーのルイス(エドワード・G・ロビンソ ン)を同行させることで許可が降りた。
すると、暇になったルシーはファーリィに黙って、自分も日本に向おうとして・・・
日本を舞台にした、興味深いハリウッド製コメディ。
アメリカからすれば東の果て。エキゾティックで異国情緒タップリな神秘の国。『フジヤマ』『スキヤキ』『ゲイシャ・ガール』が、三大要素だった時代。
何本も日本を舞台にした作品が作られたが、勝手な解釈とテキトーなイメージで作り上げた「国辱的映画」が圧倒的であった。
そもそもアジア蔑視があり、まして相手は敗戦国である。その上、アメリカの男たちからすれば、日本女性は男より格下で、常に亭主を立て、風呂に入る時は混浴にして、男の背中を流すのが文化風習である、と。ある種の憧れでもあったのだろう。
本作も発想は同じである。「蝶々夫人」を日本人女優に演じさせる。だが、これは納得がいく。
しかし、ときは戦後。アメリカナイズされた日本女性ばかりなので、イメージに合わず、ホンモノの『芸者』に演じさせようとするのだ。これも、心を広く持てば合点が行く。
しかし、亭主を驚かせようとして、密かに来日した妻であるハリウッド女優が特殊メイクをして芸者に扮したにもかかわらず、コロリと騙されて、実に『ジャポニズム』だと感動し、主役に抜擢である。
素晴しく、完全なるコメディ設定である。しかも、映画の相手役である、離婚を繰り返すハリウッド男優が、真剣に彼女に恋をしてしまい、監督に仲を取り持つように依頼するから、話が余計ややこしくなるという、その点ではいかにもハリウッド調の展開。
しかし、これが結構面白いのだ。何故なら、本作の製作者スティーヴ・パーカーは大の日本贔屓で、東京に家を持ち、一年の三分の二を日本で過していた人物だからである。しかも、当時結婚していた相手がシャーリー・マクレーン。
つまり、単なる『異国情緒』溢れる『観光景勝地』としての日本だけでなく、当時、実際の日本の生活を知る人物だったのだ。
ゆえにどこか「コワいもの見たさ」とか、「アジア蔑視」の傾向は影をひそめている。だが、リアルなだけではアメリカでヒットしない。
そこに本作のジレンマが垣間見られる。ある意味、バランス感覚の上に成り立つコメディである。日本人から見れば、薄氷を踏むスリル感もある。
しかし、製作サイドからは、日本人に気を配ってますという心意気を感じる。実に複雑な心境ではある。
製作者の日米両方への気配りとして挙げられるのが、共演者にフランス人のイヴ・モンタンを起用し、監督はイギリス映画界を代表する撮影監督ジャック・カーディフを配したということだろうか。
確かに、日本を肌で理解しようとした意気を感じるし、マクレーンもそれなりに頑張っている。何たって、実の娘に『サチコ』と名付けたほど日本贔屓である。
当時、折角、こういった映画が作られたのに、数年前ハリウッドの某プロデューサーが、これからの中国市場での開拓を視野に入れ、日中の歴史的背景をまったく無視して作った作品がある。
「SAYURI」(2005)である。結果、日中双方で、興行的に大失敗したことと考え合わせると、情報が氾濫した結果、却って人間なり、文化なりの相互理解がお座なりになったと考えさせてくれる好材料の作品である。