スタッフ
監督: ルキノ・ヴィスコンティ
製作: フランコ・クリスタルディ
脚本: スーゾ・チェッキ・ダミーコ
エンリコ・メディオーリ、L・ヴィスコンティ
撮影: アルマンド・ナンヌッツィ
音楽: セザール・フランク
キャスト
サンドラ / クラウディア・カルディナーレ
ジャンニ / ジャン・ソレル
ドーソン / マイケル・クレイグ
ジラルディーニ / レンツォ・リッチ
サンドラの母親 / マリー・ベル
フォスカ / アマリア・トロイアーニ
ピエトロ / フレッド・ウィリアムス
日本公開: 1982年
製作国: イタリア ヴィディス作品
配給: 東宝東和
あらすじとコメント
ルキノ・ヴィスコンティとクラウディア・カルディナーレが組んで発表した作品。実に淫靡で、背筋が凍る逸品。
イタリア、ヴォルテッラ。転勤でジュネーヴから、ニュー・ヨークへ向う途中、サンドラ(クラウディア・カルディナーレ)と、夫でアメリカ人のアンドリュー(マイケル・クレイグ)は、サンドラの生まれ故郷である実家の屋敷に立寄った。
そこは中世の小高い丘にある大邸宅で、第二次大戦中、ユダヤの血が流れているがゆえにナチスに殺害された父親の思い出が詰まった場所でもあった。だが、精神を病んだ元ピアニストである母親は、地元の弁護士と再婚し、今では家を離れ、施設で生活を送っていた。
初めて妻の実家に足を踏み入れたアンドリューは、豪華な屋敷なのだが、どこか嫌な辛気臭さを感じ取る。
そんな屋敷に、ロンドンで小説を書いていると聞いていた彼女の弟ジャンニ(ジャン・ソレル)が、不意に現れて・・・
人間の業の激しさと堕落を描き切った、力作にして秀作。
肉感的で官能的な女。だが、どこかアンニュイな雰囲気が漂う。それに妙なフェロモンのアンバランスさが匂い立つ、謎めいた存在でもある。
それが湿気臭さを感じる生家の屋敷の空気に触れ、今度はそこに『淫靡さ』が増幅されていく。ニューヨークに行くのを止めて、ここで暮らしましょうと微笑む顔に、魔性さえ感じさせる主人公。
どこかサスペンス・タッチだ。しかも、人妻は、近くに住む母親には会おうともしない。そこへ、この屋敷へは、しばらく来ていないと姉に嘘をついていた弟が、突如、闇の中から登場する。
モノクロで息詰まるような展開の画面から、それが絶妙な『色気』を派生させ、息苦しさを増長させていく。
一体、この家族には何があるのか。観客は、やがてこの屋敷自体が、主人公そのものであると印象付けられていく。
それを観客と同じく、敏感に感じ取るのがアメリカ人である夫。彼は、こちら同様、部外者なのだ。だが、一方で恋に落ち求婚し、結婚したという当事者でもある。
そこにヨーロッパの歴史と、脈々と流れる「血族」という断ち難い陰影が浮かぶ。それに相反して個人の力量で、どうにでもなる歴史のないアメリカ。その対比を強く感じた。
母の再婚相手である弁護士に対して、嫌悪感を露骨にぶつける主人公。母親自身も、子供たちのことになると直情的だ。しかし、弟のほうは、姉ほど母と義父に対する熱情的な雰囲気はない。それは何故か。
陰影に満ちた画面。常に誰かが姉弟を見つめているような気配。ただし、それは優しさと慈愛に満ちた天使の視点ではなく、息を潜めて覗き見をしている悪魔の視線のような悪寒なのだ。
非常に意識的に使われる『白色』。モノクロ画面ゆえに強調され、陰影が、嫌が応にも増幅される。
豪華な調度品や、中世から続く屋敷や瀟洒な庭。しかし、そこに流れるのは、贅沢品としての憧憬や、訪れてみたいと思わせる風光明媚さではない。何かしら嫌な皮膚感覚が常に、纏わり付くのだ。
それらが明らかになって行き、やがて終盤で見せる弟の悶えのシーンの淫靡さに鳥肌が立った。
監督が男色家ゆえに描けた繊細さと豪胆さ。
弟役のジャン・ソレルは、どこかアラン・ドロン的な印象を受けるし、主役のカルディナーレも「山猫」(1963)に引き続いての登板である。
そして、「山猫」では、アメリカの俳優バート・ランカスターにイタリア貴族を演じさせ、本作ではイギリス人であるマイケル・クレイグにアメリカ人役を演じさせている。
その一致性と不一致性。しかも、本作はイタリアやアメリカの原作でなく、ギリシャ悲劇をベースとしている。
大河ドラマの大作として作られた「山猫」の直後に、本作が製作されたところに、その意義があるだろう。