スタッフ
監督: ルキノ・ヴィスコンティ
製作: マリオ・ガッロ
脚本: ニコラ・パダルッコ、L・ヴィスコンティ
撮影: パスクァリーノ・デ・サンティス
音楽: グスタフ・マーラー
キャスト
フォン・アシェンバッハ / ダーク・ボガード
ダジオ / ビョルン・アンドレセン
ダジオの母親 / シルヴァーナ・マンガーノ
ホテル支配人 / ロモロ・バッリ
アルフレッド / マーク・バーンズ
家庭教師 / ノラ・リッチ
アッシェンバッハ夫人 / マリナ・ベレンソン
エスメラルダ / キャロル・アンドレ
床屋 / フランコ・ファブリツィ
日本公開: 1971年
製作国: イタリア アルファ・シネマ作品
配給: ワーナー・ブラザース
あらすじとコメント
今回もヴィスコンティ作品。前回の「夏の嵐」(1954)同様、ヴェネツィアから始まる身の毛もよだつ秀作。
1911年イタリア。ドイツのミュンヘンに住む音楽家のアッシェンバッハ(ダーク・ボガート)は心臓の持病が芳しくなく、ヴェネツィアのリド島に転地療養にやって来た。
真面目すぎる性格ゆえ、仕事にも行き詰まり、病状も良くない彼は、することもなく、ただ無為な時間を、そこで過すしかなかった。
ある晩、ホテルのロビーで避暑にやってきている母親(シルヴァーナ・マンガーノ)が引率する、ポーランドの家族を認める。その中に、美少年のダジオ(ビョルン・アンデルセン)を見つけて・・・
『美』に魅入られた芸術家の挽歌を謳い上げる秀作。
世界中の旅人の憧れの的である「ヴェネツィア」。そこに長期滞在するのが夢という人間も数多い。本作でも、主人公はその憧れの「ヴェネツィア」に避暑にやってくるという設定だ。
そんな憧憬の場所が、荘厳であり、歴史を感じさせる古都として存在するが、決して美しさだけではない、という絶望で幕を開ける冒頭から、映画は一気に見るものをいびつな世界へと誘導する。
『水の都』を際立たせるために、船でヴェネツィアへアプローチしていく冒頭のシーンでは、水上に揺らめく陽炎のようにゆれる建物そのものが、まるで、マーラーの楽曲に合わせてダンスを踊っているように見える。
すると突如、フェリーニの映画のような、妖しい化粧を施した醜い老人が笑顔で登場し、主人公を困惑させる。続いて、意思疎通がまったく出来ないゴンドラ漕ぎへと繋がっていく数分のシーンだけで、主人公の絶望と疎外感が伝わり、本作がどれほどの傑作であるかが証明される。
やがて、『リド島』という、ヴェネツィアのメインの場所から少し離れた島のホテルに到着するが、そこでも、常に水の上でゆれているような主人公の心情がこちらへも強烈に伝わってくる画面構成。
そして、ギリシャ彫刻と見間違うほど美しい少年と出会う。その瞬間、本作の方向性が決定付けられるのだ。
単純に言えば、中年男が美少年に恋をするという『男色映画』である。しかし、それが、ひとたびヴィスコンティの手に掛かると想像を絶する芸術へと昇華するのだ。
全編を貫くのは『美』への憧憬と、『老い』ヘの絶望、もしくは、『純粋性』の忘却と『完璧を求める不完全性』との対比である。
ヴィスコンティらしい、どのカットも絵画のような美しさによって描かれる残酷性が際立つ。
また、マーラーの音楽がこれほど印象的、且つ、雄弁に使われた作品はないだろう。
まさしく『美の権化』として、この世に降臨した少年。その妖しさ。その絶望的な美しさ。一気に、中年音楽家の顔が変わり、魅入られていく、まさに、その瞬間。
そして、究極の『美』に対する憧れと、自分では持ち得ないという『悟り』にバランスを崩し、精気さえ吸い取られていく。
何よりもダジオを演じるビョルン・アンデルセンの美しさが圧倒的。彼が存在したからこそ、本作は傑作として成立し得たといっても過言ではなかろう。
そんな彼が時には小悪魔の如く、同世代の少年と肉体関係をイメージさせる『戯れ』を見せ付け、また、別な時には主人公をじっと見つめる完全なる悪魔として存在する。
やがて水の都は、シロッコと呼ばれる季節風と澱んだ水ゆえに、伝染病であるペストの巣窟となり、「隔離された場所」として存在していく。
しかし、その確実に死をもたらす疫病でさえ、主人公には愛おしい美少年を追い求めるストーカー的愛情表現を抑制させることはできない。否や、むしろ、『崇高なる美』と『絶望的な禁断の想い』のために、自ら罹っていきたいとすら感じさせていく。
ここでも『死』が強烈に際立つ。芸術家として「命を賭す」価値を見いだした「絶望」と「歓び」。常に主人公には、相反することであるのだ。つまり、どこまでも「いびつ」。
些か、完全なる意味を持つクローズ・アップの多用が気になるが、それでも、本作の崇高性は微動だにしない。
『映画』という表現の、その狂おしいまでの愛しさ。映画は芸術であると痛感できる、稀有な傑作。