スタッフ
監督: ドン・シーゲル
製作: マーティン・ラッキン、キャロル・ケイス
脚本: アルバート・マルツ
撮影: ガブリエル・フィゲロア
音楽: エンニオ・モリコーネ
キャスト
ホーガン / クリント・イーストウッド
サラ / シャーリー・マクレーン
ベルトラン / マノロ・ファブレガス
ルクレア将軍 / アルベルト・モラン
アメリカ男1 / アルマンド・シルヴェストル
アメリカ男2 / ジョン・ケリー
アメリカ男3 / エンリケ・ルチェッロ
ファン / デヴィッド・エステュアルド
ファンの父 / パンチョ・コルドヴァ
日本公開: 1971年
製作国: アメリカ ユニバーサル作品
配給: CIC
あらすじとコメント
今でも現役で活躍するクリント・イーストウッドの作品で繋げた。そんな彼を語る上で、切っても切れない間柄であるドン・シーゲル監督。「ダーティハリー」(1971)にしようかとも思ったが、今回は敢えてこちらにした。西部劇が斜陽していた時期に発表された異色作。
南北戦争後のメキシコ北部。アメリカ人ホーガン(クリント・イーストウッド)は、三人の無法者に暴行されそうになっていた女性を助けた。
彼女は礼を言うと服を着た。その姿を見て驚くホーガン。何と尼僧だったのだ。彼女はシスター・サラ(シャーリー・マクレーン)と名乗り、メキシコを統治しているフランス軍への抵抗運動のために募金集めをしていたと語った。
すぐさま彼女は協力を要請するが、当然、彼は拒否。だが、一緒にチワワにあるフランス軍砦を攻撃してくれれば、その砦の金庫にある金貨の半分を協力金として上げると言われる。
一瞬にして、ホーガンの眼が輝いた・・・
実に妙なティストを持つ娯楽西部劇。
製作当時、既に集客できないジャンルであったアメリカ製『西部劇』。一方で、気を吐いていたのが『マカロニ・ウェスタン』と呼ばれていたイタリア製西部劇。
主演のイーストウッドは、アメリカでは芽がでず、マカロニ・ウェスタンで一躍有名になったのは周知の事実。
そんな彼を自らの作品に出演させたのが本作の監督であるドン・シーゲル。自分を拾ってくれたと義理を感じ、また、高尚な作品を一切作らなかったシーゲル魂に傾倒し、イーストウッド自身が敬愛してやまない監督のひとりである。
一作目のコンビ作は、現代劇でありながら西部劇のティストを散りばめた「マンハッタン無宿」(1968)で、後に同コンビで作り、一世を風靡した「ダーティハリー」(1971)のベースになった作品でもある。
本作はコンビ二作目に当たり、二人が食指を動かせたのがズバリ「西部劇」なのだ。
共演は既に大女優だったシャーリー・マクレーン。そして音楽はマカロニ・ウェスタンの巨匠エンニオ・モリコーネという布陣。仕上がったのは、正統派B級西部劇とマカロニ・ウェスタンの融合とも呼べる作品だ。
金儲けをしたい『流れ者』。有りがちな設定だ。そこに『尼僧』である。ただ、そこに「ただし」が付くのだが。
オープニングはアメリカ特有の「大自然」ではなく、メキシコの山河。そこに、いかにモリコーネらしい音楽が流れる。
すぐに暴漢たちに襲われている、ある意味、サービス・ショットとも呼べるマクレーンのセミ・ヌードが登場してくる。確かに、この時期のマクレーンはバスト・トップなどは見せないが、実に良く脱いでいた時期でもある。
先ず、この冒頭で驚いた。何故なら、この手の演出は正統派西部劇ではあり得ない場面だし、ヒゲ面で汗のにおいがこちらまで伝わってくるようなイーストウッドの姿に、完全にマカロニ・ウェスタンの世界が構築されているからだ。だが、逆にシーゲルらしいとニヤリとしたのだが。
お家芸である西部劇が斜陽していった時代に、正統派で押し戻すのではなく、いかにも、パクられた作劇で切り返し、アメリカ出身のイーストウッドに、やはり正統派ではない、マカロニ風の役柄を演じさせる。
どこか自虐的とも取れるが、そんなことは微塵も感じさせないシーゲル節に頭が下がった。
ストーリィの整合性などもお構いなし、クライマックスに向け、インディアンは登場するは、ガラガラ蛇や、列車転覆、派手なアクションと、サービス精神に満ちた展開が待ち受ける。
悠久の大自然や詩情など一切、感じさせない単純なる娯楽西部劇。
『西部劇』は、これで良いんだというシーゲルとイーストウッドの心意気を感じた。