スタッフ
監督:アレキサンダー・マッケンドリック
製作:ジョン・クロイドン
脚本:スタンリー・マン、R・ハーウッド、D・キャノン
撮影:ダグラス・スローカム
音楽:ラリー・アドラー
キャスト
シャヴェツ / アンソニー・クィン
ザック / ジェームス・コバーン
ローザ / リラ・ケドロワ
オランダの船長 / ゲルト・フレーベ
アルベルト / ヴェニート・カラサーズ
マーガレット / ヴィヴィアン・ヴェンチュラ
エミリー / デボラ・バクスター
ジョン / マーティン・エイミス
フレデリック / ナイジェル・ダベンポート
日本公開: 1965年
製作国: アメリカ 20世紀フォックス
配給: 20世紀フォックス
あらすじとコメント
前回、権力者だが小心者という敵役を演じたアンソニー・クィン。今回はそんな彼の主役作。冒険映画としてイメージしそうだが、実は一風変わった作品。
1860年代のカリブ海にあるジャマイカ。最大級の台風が来襲し、家を壊されたイギリス人のソーントン(ナイジェル・ダベンポート)は、現地人たちが台風は不吉な前兆であるという昔の迷信で騒ぎだしたので、子供たちへの悪影響を考え祖国イギリスで教育させようと決心する。長男で12歳になるジョン(マーティン・エイミス)、10歳のエミリー(デボラ・バクスター)たち五人は、ロンドン行きの帆船に乗せられた。そこにはフランス系ジャマイカ人の16歳になるマーガレット(ヴィヴィアン・ヴェンチュラ)とハリーという7歳になる弟もいた。
しかし、その船がシャヴェツ(アンソニー・クィン)を頭目とする海賊船に襲撃されてしまう。船長を脅し、大枚の金貨を探している間に、帆船の船長は子供たちを海賊船に置き土産として乗り移らせてしまう。まんまと大金をせしめ、夜になり酒に酔っていると子分のザック(ジェームス・コバーン)が、船倉に潜む子供たちを発見。気の荒いシャヴェツだったが、相手はいたいけな子供たちなので処置に困る。
やがて海賊たちがたむろするタンピコに行くと、曖昧宿の女将ローザ(リラ・ケドロワ)から、シャヴェツが子供たちを誘拐し殺したとの噂が流れ、イギリス海軍が行方を追っていると告げられる。更に町でも無邪気に騒ぐ子供たちに手下たちは彼らが悪魔を運んできたと騒ぎだして・・・
無邪気な子供たちを悪魔として捉えた異色の海賊映画。
1950年代までは冒険活劇映画の一ジャンルとして多く作られていたが、帆船などの建造に制作費がかさむため、60年代以降はほとんどなくなった。しかしCG技術が発展したおかげで、「カットスロート・アイランド」(1995)や、「パイレーツ・オブ・カリビアン」シリーズと、このところ妙に復活を遂げている感がある。
本作は派手な海戦シーンとか、多勢が入り乱れての剣劇シーンはない。どちらかというと海賊たちの日常や心情が描かれる。そこに子供たちが入り込む。そして無邪気だからこそ、男だけの汗臭く汚いが縁起を担いだりする独特の世界に平然と入り込んでくるのだ。当然、それがサスペンスを産んでいくという展開になる。
中でも、この映画の白眉というか、ゾッとするのは10歳の女の子エミリーの描き方。7人の子供たちの中では年齢的に真ん中。丁度、単なる子供から少し現実を受け入れやすくなっている年頃だ。そんな彼女をカメラは気色悪いほど、いやらしく、舐めまわすように捉えていく。完全にロリータ趣味のような描き方をしていくのだ。
更に興味深いのは、野蛮で知能の低い海賊の男たちは、一切そういう目で見ず、観客にだけ解るように撮っていること。しかし、彼女をそういう視点で見る人物がひとりだけでてくる。それは曖昧宿の女主人。
演じるはレニングラード生まれのリラ・ケドロワ。同性でありながら、すれっからしの中年女のイヤラシさを漂わせる。登場時間こそ短いが、ゾッとする演技だ。
作劇としてはコメディっぽいシーンも散見するが、その裏にある冷たい人間の真実が感じ取れ、まったく笑えない。なかには、その作劇に嫌悪感を催す観客もでてくると感じる。
地味な作劇かキャストゆえか、本作は東京ではロードショー公開されなかった。今では、単館とかレイト・ショーといった公開スタイルがあるが、昔は『二番館封切り』という形式があった。封切り(ロードショー)は東京でいうと銀座、新宿、渋谷の映画館。その後、池袋、上野、浅草とやや大きめの町も足して10ヶ所ほどで封切り直後の作品と、もう一本を抱き合わせてロードショー料金で公開するというスタイル。
通常は公開直後の準新作二本立てだが、一本では集客できないと思ったのか、もしくは封切館の予定がいっぱいだったのか、中には二本とも二番館での封切りというのもあった。本作は以前ここで扱った「渚のたたかい」(1965)と二番館での二本立てロードショーだった。
その後、映画は三番館や名画座へと降りていった。現在ではこういった公開スタイルが激減し、公開後半年ぐらいでビデオやDVDになり、レンタルされる。数多く映画を見たいと思っていた自分としては、一本で高額な料金を払うロードショーを見送って、半年後に三本立てで、かつ低料金の名画座に降りてくるのを心待ちにしていたものだ。今だとレンタル・ビデオ屋で「新作」から、「準新作」「一般作」になるのを待つ感覚に似ているのかもしれない。
更に、現在では死後になったが『映画を追いかける』という言い回しがあった。それは封切りなどで見て感動し、二番館、名画座へと何度も足を運んだことを指す。
都度、映画館自体の質も落ち、トイレの異臭が蔓延していたり、イスも汚くて身動きするたびに軋んだり、タバコの煙が充満していた。更に何度も上映するので、フィルムに傷が付き、『雨が降る』状態になっていく。それでも好きな作品を愛おしく見ていた。
今ではビデオやDVDで、見たいシーンのみやトイレ休憩などと勝手にストップさせ、更に都合の良い時間に再生できる。便利になったと痛感している。
だが、逆に歳を重ねると妙に感傷的に昔を思いだすことも多くなる。