雨に唄えば – SINGIN’ IN THE RAIN(1952年)

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スタッフ

監督:ジーン・ケリー、スタンリー・ドーネン
製作:アーサー・フリード
脚本:アドルフ・グリーン、ベティ・コムデン
撮影:ハロルド・ロッスン
音楽:レニー・ヘイドン

キャスト

ドン / ジーン・ケリー
コスモ / ドナルド・オコンナー
キャシー / デビー・レイノルズ
リーナ / ジーン・ヘイゲン
シンプソン / ミラード・ミッチェル
客演舞踏家 / シド・チャリス
ゼルダ / リタ・モレノ
ロスコー / ダグラス・フォーリィ
ドーラ / マッジ・ブレイク

日本公開: 1953年
製作国: アメリカ MGM作品
配給: MGM


あらすじとコメント

前回の「ザッツ・エンタテインメント」のファースト・シーンにでてきた作品。MGMの中でも、どれだけ評価が高いが垣間見られた。事実、MGMミュージカルの中でも最高峰の一本。

1927年アメリカ、ハリウッド。映画はまだ音を持たず、サイレントの時代。名コンビの俳優ドン(ジーン・ケリー)とリーナ(ジェーン・ヘイゲン)は12本もの映画を作り、ことごとく大当りしていた。実生活でも二人は恋人との噂が流れ、リーナはその気になっていたがドンは違っていた。リーナは美人ではあるが、素っ頓狂な声の上、訛り丸出しでオツムも少々足りない。しかし、自分は大スターであるというプライドばかりが際立っていたからだ。

二人の新作のプレミアの晩、ドンは以前からの相棒で親友のコズモ(ドナルド・オコンナー)とパーティに向かう途中、街なかでファンに見つかり大騒ぎになってしまう。逃げだしたドンは見知らぬ車に飛び乗った。ひとりで運転していたのはキャシー(デビー・レイノルズ)。美人と知り合ったドンは、自分は映画スターだと、自信たっぷりに口説きだす。しかし、キャシーは映画スターなんてクズよ。 本当のスターは台詞を話し、舞台に立つ人間、と冷たく言われてしまう。車を降りて、パーティ会場に着いたドンは、実はキャシーが唄は上手いが売れないコーラス・ガールだと知る。お互いに面目丸潰れと相成った。

やがてドンとリーナの次回作が製作を開始。そんな折、別な映画会社がトーキーを発表し、大当たり。

当然、ドンの所属する撮影所は大慌て。社長は新作をトーキーにすると言いだす。しかし、リーナに台詞が上手く言えようはずもなく・・・

映画が音を持ったことで激変した映画業界をコメディ要素満載で描くミュージカルの傑作。

美男美女で大見得が切れれば、人気俳優だった時代。しかし、英語もちゃんと話せないヨーロッパ系や、訛りのひどい役者が多勢いた。実際にその『声』という表現が、ちゃんとできなくて消えていった大スターたちもいた。そのことを皮肉った設定。

しかし、それは製作側も同様。まったく知らない新しい機材が並び、声を収録するマイクも今のと違い大きなサイズだ。その上、性能も悪い。それを画面に映さないように撮影する困惑。役者も台詞をちゃんと覚えなくてはいけないし、マイクを気にして演技に集中できない。

そういった混乱を見事にコメディとして描き、活発で明るいミュージカル・ナンバーで綴っていく。

実際に登場するミュージカル・ナンバーも素敵だ。ドナルド・オコンナーがアクロバティックな踊りを披露する「笑わせよう」、主役三人が披露する軽快な「グッド・モーニング」など、どれも素晴らしい。

そして映画の歴史に燦然と輝くタイトル曲の「雨に唄えば」。前回の「ザッツ・エンタテインメント」でも登場したが、この曲はトーキー初期の「ホリウッド・レヴュー」(1929)で初めて使われた。つまり、この映画のためのオリジナルではなく、本作がサイレントから、トーキー(発声映画)へと激変した時代へのオマージュなのである。

他にも、サイレント時代の古い映画ファンが思わずニヤリとするシーンも多くでてくる。もっとも、それらをちゃんと理解できる映画フリークは、ほとんど鬼籍にお入りだろうが。

また、分かる分からないは別として、現在発売されているDVDで、本作で使用した場面の元ネタをちゃんと説明してくれている。こういった特典は珍しいので、一度本編を見てから、元ネタをチェックすると映画の歴史的流れが垣間見られるので面白い。

映画がどのように変貌していったかを理解できるし、聞いて楽しく、観て興奮するナンバーの連続で、至福の時間を過ごせるだろう。

映画ファンを自称するなら、絶対に避けて通れない作品。

余談雑談 2007年6月9日
発行元の『まぐまぐ』から、また連絡が来た。「映画のまぐまぐ」というサイトでこのメルマガを来週の月曜までの一週間紹介してくれているとのこと。確か、去年もこの時期に紹介してくれた。 細々とだが続けていると、一応、認めてくれているということだろう