この愛の終わりに(未) – TWO FOR THE SEESAW(1962年)

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スタッフ

監督:ロバート・ワイズ
製作:ウォルター・ミリッシュ
脚本:イサベル・レノー
撮影:テッド・D・マッコード
音楽:アンドレ・プレヴィン

キャスト

ジェリー / ロバート・ミッチャム
ギテル / シャーリー・マクレーン
フランク / エドモン・ライアン
ソフィー / エリザベス・フレイサー
オスカー / エディー・ファイアストーン
ジャコビ / ビリー・グレイ
ダンス教師 / ケン・ベリー
ビット / ハロルド・グールド
ダンス生の母親 / アン・モーガン・ギルバート

日本公開: 未公開
製作国: アメリカ ミリッシュ・カンパニー作品
配給: なし


あらすじとコメント

前回同様、NYにやってきた異邦人の孤独を描いた作品。大都会の中での個人がいやでも際立つ。またもや日本未公開作品だ。

アメリカ、ニューヨーク。単身ネブラスカから来たばかりの弁護士ジェリー(ロバート・ミッチャム)は、孤独を噛みしめながら意味もなく、ただ街を徘徊していた。不意に同郷の友人で絵描きのオスカー(エディー・ファイアストーン)のアパートを訪ねる。そこでは芸術家や役者たちが集ってスノッブなパーティーが繰り広げられていた。地味なスーツ姿の彼は完全に場違いだった。そんな中に中古の冷蔵庫を必死に売ろうとしているダンサーのギテル(シャーリー・マクレーン)を認めた。

翌日、意を決して彼女に電話を入れるジェリー。しかし、冷蔵庫は他人にあげた後。「実は冷蔵庫は口実だ。こっちに来たばかりで知り合いもいない」彼に憐憫を感じたギテルは、ディナーに付き合う。だが、今までの環境があまりにも違うので、会話が噛み合わない二人。方や12年の結婚生活に息苦しさを感じ、離婚調停中の男と、いつか自分のダンス・スタジオを持ちたいと思いつつ、一度もNYからでたことがない女。しかも男は故郷とNYの法律が違うので、再試験を受けなければならない立場。つまり、現在は無職。女はいつも男に都合良くあしらわれるタイプ。同じなのは大都会で感じている孤独と焦燥感だった。

ギテルは優柔不断なのに、どこか押し付けがましいジェリーに興味を持ち、自分の部屋へ彼を入れる。

やがて二人は愛し合うようになるが・・・

大都会で感じる孤独が、どのように人間に影響を与えていくかを渋く描いた佳作。

人間はひとりでは生きていけない。だから誰かと関わりを持ちたくなる。だが、個人が優先される社会では、その個々によって依存したくなるもの、独立したくなるものと様々。前回同様、生きてきた環境に左右されていく人間たち。

原作はウィリアム・ギブソンによるブロードウェイの大ヒット舞台劇。登場人物はほとんど二人だけだ。つまり、完全な会話劇。

その脚本は絶妙だ。

初めて女の部屋を訪れた男が尋ねる。「君はどっちのタイプ?今風なの、それとも古風なのかい」「何故?」「それによって、今夜ここに泊まっていくか、どうかを決める」とか、

男が綺麗に包装された小さな小箱をプレゼントする。「女はダイヤモンドだと思って箱を開ける」喜んで包みを開く女「あれ、石鹸じゃないの」「無職の僕からすれば、ダイヤの値打ちさ」こういったキザな台詞や孤独感が際立つ会話など、後々まで記憶に残る台詞が多く登場する。

台詞がメインだけに、当初はお互いを繋ぐのが電話での会話。後半でもやはり電話が重要な小道具として活用される。こういった場面では、向かい合っての台詞の応酬と違い、役者ひとりの力量が問われる。その微妙な表情の変化は映画の方が伝わりやすい。そうなると、ひとえに役者の演技にかかってくる。その点、ミッチャムもマクレーンも見事だ。

淀川長治はかつて、ブロードウェイでこの劇を見たと言っていた。主役はヘンリー・フォンダとアン・バンクロフト。演出は「俺たちに明日はない」(1967)のアーサー・ペン。特にフォンダの佇むだけの後ろ姿の演技に驚嘆したと言っていた。

本作は日本でも舞台化された。自分もその初演を観た。主演と演出が「七人の侍」(1954)で若侍を演じた木村功。相手役は小川真由美。木村の演技は格好つけ過ぎで鼻白んだが、小川は見事だった。

日本での公演タイトルは「二人でシーソー」。原題のままである。これは公園にある遊具のシーソーを指している。向かい合ってお互いが座るが、常に揺れ動き、一方が上に行けば他方は下にいて、足をつけずにはバランスがとれない様を言い表している。

映画自体は、ロケなどでNYの風景の中に彼らが佇むといった広がりを見せる。これは舞台装置が二人各々の寝室と枕もとの電話だけというシンプルさからの脱却を意識したのだろう。監督は世界中で大ヒットした「ウエスト・サイド物語」のロバート・ワイズ。しかもその翌年に作った作品だ。両作とも、NYを舞台にしたブロードウェイ劇の映画化。

ただ、すでに大作志向だったのか、余計なシーンも追加されていて、いささか冗長な感じがする。もっとも、ノーカット版を観たのはずいぶん後のことだが。

本作は20年以上前に、深夜の2時間枠で吹き替えカット版によって放映された。その後、昼下りの野球中継が雨で中止になり、雨傘番組として、1時間半という更に短縮版で放映された。多分、東京での地上波の放映はこの2度だけだった。

一発で気に入り、その後、オークションでサントラ・レコードを買い、更に輸入版のレーザー・ディスクを購入した。しかし、残念なことに英語を理解しない自分としては、字幕がないのは決定的な敗因だった。まして台詞劇である。

それが数年前、なぜかケーブル・テレビで放映された。小躍りしながら、喜び勇んでビデオに収録した。以後、何度か再見している。都度、脚本は見事だし、主役二人の演技は彼らのキャリアに残ると信じている。ただ、地味過ぎるし、実に暗い作品ではある。

日本はおろか、アメリカでもビデオやDVDが発売されておらず、ここで紹介しておきながら、読者の皆さんが見られないのが残念。もし、ご興味があれば、ご一報ください。

吹き替え短縮版とケーブル放送版のビデオがあります。もっともベータなのですが。ノートリミングの輸入版レーザー・ディスクもありますが、これも今更の絶滅機器か。それより、著作権法や違法なコピーに抵触するのだろうか。

難しいと思いながらも、ひとりでも多くの人に見てもらいたい作品なのだが。

余談雑談 2007年7月21日
試写で「河童のクゥと夏休み」を見た。 江戸時代に地震で生埋めになった河童の子供が現代に蘇り、一般家庭で生活するというアニメ作品。「となりのトトロ」など非常に宮崎駿を意識した作りで、環境問題やマスコミの横暴なども織り交ぜノスタルジック・ムード