桜も盛りを過ぎて。
眼下は有名な花見スポットで通常以上に人の流れが変化する。今年はかなり天候に左右された印象だが、そろそろ終わりである。
寒かったり、雨が降ったりしても僅かの隙を見て坐って宴会を楽しむグループも多く、早朝などは完全にインバウンド系ばかりで朝から何とも元気。つい先立ての花散らしの嵐は地面を花筏にして、何とも薄っすらピンクのグラデーションで見事。
毎年、桜が見降ろせる絶好の場所で何とも幸運ではあるが住居近隣全体が世界的超有名観光地だと、一般生活者にはどんな時期だろうと日々、絶望感に襲われるのも事実。
何を贅沢なと仰る御仁もおられようが、世界的規模で人間の質が劣化していると確信させられると不快感しか残らない。東京はインバウンド歓迎と御上は言うが、ゴミは持ち帰れが前提で実にゴミ箱の数が少なく、自室が入るビルの一階踊り場に観光客の食べ残しが放り込まれていることも。旅の恥は掻き捨ては末永く残っていくのかね。
文明の加速度的進化は逆に余裕を喪失されるのだろうか。遅れまい、バカにされまいと焦り、結局足元から頭まで全てが覚束なくなる。しかしそれが大半を占めれば『普通』なのだ。もしくは常識的な人間は黙って騒がずだから、もう片方が目立つことになる。
などと頑固ジジイ的なことを言ってはみても、すべてを否定する訳にも行かずなのが悩ましい。便利はモノは便利な方が良いと。携帯電話やらのノートPCとかね。
使用頻度が少ない折畳み携帯なんぞスマホに替えたたところで意固地に便利さを排除すれば必要ないし、契約及び使用方法では月料金が今より安いとか勧める人もいるが、その前にスマホ本体の購入価格がかかるでしょうと。
確かに2年後には完全廃止で、嫌でもゆくゆくは買い替えることにもなるんだろう。そのときに頼ろうと思っていた元地元の後輩も黄泉の世界入りだし。
尋く相手なり相談相手が減っていく。年長者なら順番だと諦めもつくが、年下は想定外なことも多く嫌な感じだ。それでも変化は受け入れざるを得ないかと、何だか少しづつ外堀を埋められていく気分。
名残の桜を見下ろしつつ同じように綺麗に散ってみるかと意気込んでみても、桜とは違い来年のこの時期に期待を持たせつつ蕾から再度始めることはない。散り際の美学なんぞ誰も期待しないし、そもそも自分の思い通りに人生を終わらせる事もないのが普通。
ま、春ですな的なことを言ってみても、すぐに今年も暑くて死にそうとか違う意味で死にそうと言う人生なんだろうな。まだ四季が死期にならないように祈るばかりだ。