スタッフ
監督: ロベルト・ロッセリーニ
脚本: セルジオ・アミディ、ディエゴ・ファブリ
インドロ・モンタネッリ
撮影: カルロ・カルリーニ
音楽: レンツォ・ロッセリーニ
キャスト
グリマルディ / ヴィットリオ・デ・シーカ
ミューラー大佐 / ハンネス・メッセマー
オルガ / サンドラ・ミーロ
ファッシオ夫人 / ジョヴァンナ・ラッリ
ヴァレリア / アン・ヴァーノン
バン・ケッリ / ヴィットリオ・カプリオーリ
パルチザン / フランコ・インテルレンギ
ヴェラ / マリー・グレコ
ヴァレリ / ジュゼッペ・ロセッティ
日本公開: 1960年
製作国: イタリア チネリッツ作品
配給: イタリ・フィルム
あらすじとコメント
監督としても役者としても才能を発揮したヴィットリオ・デ・シーカ。そんな彼が役者として、最も耀いた作品のひとつ。
1944年イタリア、ジェノヴァ。連合軍がイタリア本土に上陸し、南部は解放され、北部地方のみをドイツ軍が統括していた頃。イタリアの軍事政権は崩壊し、対独パルチザン運動も加速していた。
そんな折、自らを“大佐”と名乗るグリマルディ(ヴィットリオ・デ・シーカ)という50がらみの男がいた。彼は、女と博打に身を持ち崩し、更に口先八丁でドイツ軍に捕らえられている家族がいる者たちに口利きを約束しては、金を巻き上げ、更に博打を続けていた。
ある朝、町外れを歩いているとナチスのミューラー大佐(ハンネス・メッセマー)と知合って・・・
戦時下での人間の尊厳とは何かを問う力作。
戦争末期。イタリア人には既に厭戦気分が蔓延し、今日、明日をどう生き抜くかが最重要の生活であった。一方で、同盟国でありながら、戦争を放棄したイタリアを統治するドイツ。
ラテン気質な国民と、優位性を固持するゲルマン民族。そんな国が同盟を結んだこと自体が間違いなのだと、容赦なく切り捨てるロベルト・ロッセリーニ監督の視線。
本作は、戦争など対岸の火事であり、自分は自分だという「身勝手」に生きる中年男が主人公である。
一見、人懐こそうで優しげな雰囲気が漂う紳士。いかにも女好きなラテン男を絵に書いたようなタイプである。
女と博打に眼がなく、身内の逮捕者を心配する家族に取り入り、金品をせしめては、またギャンブルに注ぎ込む。そして、娼婦からタレントと自らの性欲を満たすために次々と女性を弄んできた自堕落な男。
しかし、博打の才能はなく、更には、女性たちの方が一枚上手だと知らしめる展開。それでも、他人の不幸は見て見ぬ振りも出来ないという優しさ、というよりも、優柔不断さが際立つ男でもある。
自分を省みない徹底したダメ男として描かれる前半部分。そして、そんな主人公に目を付けるナチス高官。
主人公の素性を知り、見逃してやる変わりに、イタリア軍の実力者で信頼が厚い「ロベレ将軍」に成りすまさせて刑務所に送り込み、収監されている者たちの中から対独運動の指導者をあぶりださせようとする。
困惑する主人公。ただし、それは母国イタリアや同国人への裏切りという背信行為ではなく、上手く演じられるかどうかという、自分自身に対してである。
そんなダメ男をデ・シーカが思慮深く演じている。あくまで、単なるダメ男ではなく、『弱い』ゆえに『愛おしい』というスタンスで演じて行き、熱演。
しかし、何といっても、本作で一番白眉な演技を披露するのはナチス高官役のハンネス・メッセマーである。「大脱走」(1963)で収容所所長役を好演していたが、あちらでは出番が少なく、彼の特性を披露しきっていなかったが、本作ではほぼ全編に渡り出演しているので、ドイツ人としての気高さと優しさを滲ませる演技が堪能できる。
自ら戦時中、対独運動に身を投じていたロッセリーニ監督と洒脱な演技者でありながらも、ロッセリーニ同様、ネオ・リアリズモ映画の先駆者監督でもあったデ・シーカ。
戦争を体験してきた人間同士の憤りと誇りが、戦後13年経って、眼を向けた敵は同国人である。
ただ、主人公が南イタリア出身という点に、深謀遠慮なる視点が集約されているような気がしないでもない。
そこに南のナポリ出身のデ・シーカと、ローマ出身のロッセリーニの本作に対する解釈の違いが浮かび、実に興味深い。