スタッフ
監督:アルフレッド・ヒッチコック
製作:フランク・ロイド、ジャック・H・スカーバル
脚本:ピーター・ヴィアテル、ジョーン・ハリスン、D・パーカー
撮影:ジョセフ・ヴァレンタイン
音楽:チャールス・プレヴィン、フランク・スキナー
キャスト
ケイン / ロバート・カミングス
パトリシア / プリシラ・レイン
トビン / オットー・クルーガー
フリーマン / アラン・バクスター
ヴァン・サットン夫人 / アルマ・クルーガー
フライ / ノーマン・ロイド
ネルソン / クレム・ビーヴァンス
メイソン夫人 / ドロシー・パターソン
ロバート / イアン・ウルフ
日本公開: 1979年
製作国: アメリカ ユニヴァーサル作品
配給: IP
あらすじとコメント
今回もヒッチコック作品。監督が好きな題材のひとつである「巻き込まれ型」の典型作だが、渡米後のヒッチの苦悩ぶりも感じられるアンバランスさが目立つ作品。
アメリカ、カリフォルニア。航空機工場で火災が発生し、工員一人が死亡した。警察はテロ活動と断定し、捜査を開始。出火当時、焼死者の近くにいた工員ケイン(ロバート・カミングス)に容疑が掛かった。
しかし、まったく身に覚えのないケインは、出火直前死亡した工員と接触していた、フライと名乗る正体不明の男が怪しいと睨んだ。しかも、その時ぶつかった弾みで落とした封筒の宛先『ディープ・スプリング牧場』も気に掛かっていた。
警察の手から上手く逃げだした彼は、トラックに便乗し、牧場を目指したが・・・
ヒッチコック作品としては、奇妙なアンバランスさを感じさせるサスペンス作。
普通の工員が大いなる陰謀に巻き込まれ、警察とドイツのナチ諜報団の双方から追われつつ、真相を解明していく。
前回扱った「海外特派員」(1940)同様、当時、連合国側の敵であったナチス・ドイツを悪役に設定しての展開であり、つまり、強大な敵集団で、個人犯なり、少数グループといった、簡単なる相手ではないのである。
ただ、「海外特派員」と本作の違いは、熱血漢の記者と一工員という、主人公の設定であり、またヨーロッパを股にかける展開とアメリカ国内での展開という点。
そこにどうしても拡がり感の差があるのは否めない。しかも、本作の主人公のロバート・カミングスの薄っぺらい存在感が、タフに敵相手に対峙して行くという雰囲気に欠け、また、ヒロインを演じているプリシラ・レインも監督の趣味ではないと感じた。
事実、ヒッチコックは、本作の主人公二人は、会社が押し付けて来た俳優であり、自分の意に沿わなかったと後に供述している。
ただ、いかにもヒッチコックらしい、映像テクニックは満載であり、冒頭の工場の真っ白い壁に投影される影や、煙の演出など、いきなりニヤリとさせられるし、観客がいる映画館の中で、繰り広げられる銃撃戦など、意表をついて興味深い。
そして、本作の白眉はクライマックスの「自由の女神」でのアクションであろう。このシーンの演出は見事であり、監督の演出理論として、度々、使用される『最大から最小』の効果がフルに活用されているといえよう。
大きな自由の女神像。その高く掲げられた右手に持つ松明でのアクションから、落ちそうになった人間を助けようと掴んだ服の袖の糸がプチプチと一本づつ切れて行くアップを映すサスペンスという、『最大から最小』の極端な手法。
息を飲むというのは、正にこのことと呼べる場面。そのような場面が何度となく登場するので、印象深い作品ではあるのだが、やはり、全体的にご都合主義全開というストーリィ自体の弱さと主役を含めた俳優陣の華のなさで、全体としては冗漫なイメージとなってしまった。
ヒッチコック自身もそれを感じていたのか、かなり演出方法にこだわることに逃げたと感じざるを得ない。
ただし、他の監督たちが手掛けた凡百の作品よりは、面白いのは間違いない。それはヒッチコックという監督の力量であり、常に新しいトリックや撮影方法を編みだした映像表現への飽くなき追求心の賜物である。
ただ、本作は英国時代の彼らしさが消え、登場人物の移動もアメリカ国内のみというストーリィ設定などにより、「完全なるアメリカ映画」として完成させようとした、どこか媚びたというか、方向転換をしようとした彼自身の不安定さが、でたとも感じる。
それでも、決してツマラナイ映画ではない。