しばらくぶりに講釈を聞いた。今回は、ちゃんとした専門家が説明してくれたもので、大変勉強になったという意味での講釈である。
通常、自分は「講釈」と聞くと垂れるとか、述べるとマイナスイメージが浮かぶ。『講釈が多い』とも言ってたっけ。どの道、嫌々聞かされる感じだ。
江戸時代には「講釈師」という商売があり、明治以降に呼称が変化したのが「講談師」。「浪曲師」なんてのも存在する。どちらにせよ「言葉で伝える」職業である。でも、落語家は何故に「師」ではなく『家』なんだろうか。
政治でも「家」だよな。まあ、揶揄して「政治屋」と蔑称を込めて発言する記者なり評論家もいる。その評論家も「家」だな。
言葉でというか、文字で伝えるといえば作家も「家」だ。でも、家を作ると書くと大工を想像する自分。ならば文筆業か。ふと、今どき筆はおろか手書き原稿で通用する作家は存在するのだろうかと思った。
ガソリンスタンド業時代に先代からの顧客で「紙屋さん」がいた。しかも専門は有名作家用の原稿用紙。
そこの旦那さんに作家によって印字体、紙質、マス目の色まで千差万別だと聞いたことがある。いつか自分も自分の名前の入った原稿用紙を作ってみたいと言ってみたことがある。まあ、すぐにでも作るよと旦那さんは言ってくれたが、高いよと笑ってたっけ。
でも、当時から天邪鬼。どうせなら好きで通っていたイタリアのナポリに100年以上も続く老舗文房具店があり、客の注文に応じて、どのようにでも対応してくれるとナポリっ子の知人が自慢していた。
ならば、そこでイタリアの古紙を使い、イタリア語表記、つまりは旧字体のローマ字で名前を印刷した原稿用紙を作ってみたいと。
作らなくて良かった。作家になれなかったし、もしなってたとしても手書き原稿を受け取る出版社など今やありえない。部屋に和室もないから障子紙や襖の修繕にも転用できない。
確かに今ではメモを取る以外に手書きすることは皆無になった。当然、漢字や書き順を忘れるし、PCでだって誤変換をスルーするようになった。
それでも誤変換を想像する楽しみがあるという人もいる。決して間違い探しやアラ探してな感覚ではなく仰るから癪に障る。
はいはい、自分なんぞより余程人間が出来ていらっしゃる。年齢じゃなく性格ってことね。
あ、そうですか。別に構わないね。どうせ来週は沖縄だし。