髪結いの亭主 – LE MARI DE LA COIFFEUSE (1990年)

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スタッフ
監督:パトリス・ルコント
製作:ティエリー・ド・ガネ
脚本:クロード・クロッツ、パトリス・ルコント
撮影:エドゥアルド・セラ
音楽:マイケル・ナイマン

キャスト
アントワーヌ / ジャン・ロシュフォール
マチルド / アンナ・ガリエナ
アントワーヌの父親 / ローラン・ペルダン
シャルドン / ジャック・マトウ
アンブロワーズ / モーリス・シェヴィ
モルヴォワシュー / フィリップ・クレヴノ
シェーファー夫人 / アンヌ・マリー・ピザニ
アントワーヌ少年時代 / ヘンリー・ホッキング
モルヴォワシューの婿 / ティッキー・オルガド

日本公開: 1991年
製作国: フランス ランバート・プロ作品
配給: テレビ東京、アルシネテラン

あらすじとコメント

監督パトリス・ルコント。微妙というか、巧妙というか何ともシニカルなコメディが得意の印象。そんな彼の『ヤラしさ』がでた作品。

フランス、ノルマンディー

12歳で思春期に入った少年アントワーヌ。そんな彼は、たった独り店内で客待ちをする理容師女性に一目惚れした。強烈なる初恋である。

やがて彼(ジャン・ロシュフォール)は成長。それでも価値観は変わらず当時の嗜好性のまま、偶然見かけた独りで店を切り盛りする美人理容師マチルデ(アンナ・ガリエナ)を見染め、結婚までしてしまう。

心底から彼女を愛する彼は常に一緒で、店でも仕事をする彼女を見守る始末。マチルデの方もそんな彼を愛おしく思い、貧しいながらも幸せな日々を過ごすが・・・

小さな幸せを小さな波乱と共に描く人間ドラマ。

日本で意味する『髪結いの亭主』とは、妻の稼ぎで「ヒモ」のような生活をする夫を指す。つまり、仕事もせずにのうのうと生きている人種である。

そういう意味では本作の主人公もそれにあたる。ただし、浮気もせず心底妻を愛する良き亭主として。

スタートは子供時代の強烈な印象。異性としての『女』で性的対象でもある。

それを素直に家族に言うから父親は驚天動地で思わず手を上げてしまう。それでも価値観の変貌もなく、それを貫き成人。

しかもヒロインと知り合い、初志貫徹とばかりに本当に結婚すると聞いて父は他界するという何ともブラックな展開。

ただし、あくまで妄想と現実が混在し人間の欲望と羨望が渦巻くことによってのエロティックさを前面にだす演出。それが人間本来の『業』というか本能としての生き物なのだと描いていく。

主人公を演じるジャン・ロシュフォールは微妙でありながら決して下品でオタクとも違う絶妙の存在感を醸し、お見事の一言。

いかにもの二枚目でもなく、かといって醜男でもない。実に個性的だが決して品性を忘れない存在感があり、この手の役者は少なくなったと感じさせる出来栄え。

ヒロインのエロティックさも決して全裸を披露するわけでもないが、ぞれが本来のセクシーさを醸しだす。

この表現も昔の思春期の少年が今と違い、簡単に成人女性の裸体を見られない時代だからこそ、妄想が暴走するイメージを掻き立てる。

それが大人になり結婚して実際に四六時中一緒にいるとなると、すぐに行為に及ぶことが可能という「夢の具象化」と相成る。愛とはそういう一面を持つのである。

妻であるヒロインもそんな男心を熟知し、受け入れるような、はぐらかすような態度を示していく。

それこそ主人公が少年時代に惹かれた、当時の「女美容師」に重なるのである。

当然、様々な男が篭絡目当てで近寄ったりすることも知っているから主人公は常に一緒にいるのだ。

つまり「女理容師」という職業が、どこか顔や髪に触れることから誤解も生まれるのかもしれない。

主人公夫婦を取り巻く周囲の人間たちも個性的だし、閉塞感のある田舎町の中で繰り広げられるドラマはその唐突なる終わり方と相まって不思議なティストで押し通してくる。

余談雑談 2024年11月9日
そろそろカウントダウン。 自分にとって地元で最後の『食堂』。そこが11月末で閉店する。申し訳程度のカウンターには席が四つ。他に四人掛けテーブルが三卓。オバサンが独りで切り盛りしてきた店。 本当に、これぞ食堂という態でメニューも豊富であった。