久々に聞いた言葉。
「見境(みさかい)がある」。
美しい表現だと思った。発言したのは人間国宝である狂言師の野村万作。
今までは「見境なく、片っ端から」的なネガティヴな印象を植え付ける使用法として意識していた。
それが「〜がある」と言うだけで真逆の印象になり、しかも人間国宝が穏やかに発言したから、まったくもって自分は持ち合わせてないなと痛感してしまった。
「区別」とか「判別」ということで、大人としての嗜みなのか、持って生まれた才覚とか、どの道人間としては欲しいもの。
「分別」も憧れる言葉。些か違う意味かもしれぬが「分をわきまえる」。これも大事だと思っているし、これらを持ち合わせていない人間とは関わり合いたくない。
逆に「身の程知らず」だからこそ必死こいて上に行きたいと頑張る人もいるだろう。そうやって低層から抜け出したいと。
やはり、その手の人間も自分とは相容れないと思うし、露骨に頑張ってるアピールをするとか、少しでも上に来られたなと思うとすぐに上から見下すようになるのも苦手。
「タワマン上層階」「起業家」「勝ち組」てな単語をポジティヴ変換して憧れる。一方で自分は、そんなタイプは所詮『俄か』じゃないかよと感じてしまう。
恐らく、その変換が最初に浮かぶのは、自分が死ぬほどの底辺を味わってないからだろう。というより、かなりの強運に恵まれている人生だとも思っている。
何度か死にかけたこともあるし、自らが運転していた車を廃車にした事故直後に、まったくの無傷で生きているのは奇跡、と警官に驚かれたこともある。
で、何度かの奇跡的経験の後、そこから教訓めいたものを思うようにもなった。
『自分は守られているのかも』。だから強運だけど、決して自分が頑張って手に入れた実力ではないんだよな、と。
ゆえに無理をせずにご先祖様か神様か知らないが、感謝をして『運の小出し』とか『運の細分化』を願う。
つまり、間違っても宝くじやギャンブルに賭けない人生。そんなことで運を使いたくないし、そこで見間違うと転落人生が待っていると信じる。
「一か八か」の「はち」は『バチが当たる』と変換するし、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」と『八』は末広がりと思わずに誤変換。
でもさ、きっと恵まれているんだろうよ。だから、どこか冷めているのかも。
これまた上から目線で苦笑だが、頑張る上昇志向の人を横目で見つつ、「衣食足りて礼節を知る」を教えたくなる。
で、それを更に都合良く誤変換して、自分には見境があると勘違いしてみるか。