スタッフ
監督:ジャック・クレイトン
製作:アルバート・フェネル
脚本:ウィリアム・アーチボルト、トルーマン・カポーティ
撮影:フレディ・フランシス
音楽:ジョルジュ・オーリック
キャスト
ミス・ギデンス / デボラ・カー
叔父 / マイケル・レッドグレイヴ
ミセス・クロース / メグス・ジェンキンス
クィント / ピーター・ウィンガード
マイルス / マーティン・スティーヴンス
フローラ / パメラ・フランクリン
アンナ / アイラ・キャメロン
ミス・ジェッセル / クライティ・ジェソップ
日本公開: 1962年
製作国: アメリカ 20世紀フォックス作品
配給: 20世紀フォックス
あらすじとコメント
前回が先妻の亡霊に憑り付かれる話。今回も同じく亡霊が絡むどこかインモラルなスリラー。
19世紀末ロンドン。田舎の邸宅ブライ・ハウスに住む幼い少女フローラ(パメラ・フランクリン)の家庭教師としてミス・ギデンス(デボラ・カー)が叔父(マイケル・レッドグレイヴ)に呼ばれ、面接を受けた。
叔父はフローラの他に、兄のマイルス(マーティン・ステーファンス)がいるが、彼は寄宿学校に入っていて今は幼い妹だけが数人の使用人と暮らしている、と告げる。可哀想なことに子供たちには自分の他に身寄りは一切いないとのことだった。心優しく責任感の強いギデンスは、是非、自分がやりたいと懇願した。
叔父に承諾を得るとすぐさまブライ・ハウスに向かった。そこは静かな人里離れた場所にある古い邸宅だった。ギデンスが、門から入っていくとどこからともなくフローラを呼ぶ声が聞こえる。だが、その声はどこか不気味な感じだった。邸に着くと使用人頭のミセス・グロース(メグス・ジェンキンス)が待っていた。誰かフローラを呼んでいたかと問うと、誰も呼んでないと答える。不思議に感じるギデンス。フローラは可愛い子で、すぐに彼女になついて来たが、すぐに兄のマイルスが寄宿学校を放校になった、との知らせが舞い込む。
理由は不道徳で堕落しきっているとのことだった。困惑するギデンス。
戻ってきた彼は幼いが、どこか謎めいた雰囲気を伴っていた。ギデンスがミセス・グロースに問いただすと、マイルスは以前ここに勤めていた執事のクィントに心酔していたが、何者かに惨殺されたと聞かされる。以後、マイルスの言動が変わったことも。
数日後、庭でバラを摘んでいたギデンスは、母屋の塔の上に見知らぬ男が立っているのを目撃して・・・
異様に怖い心理スリラーの佳作。
主人公はオールド・ミスの勤勉な家庭教師。しかも美人。だが、異性やセックスに対する欲望を強く感じている。自ら抑制しているが、心の奥底で渦を巻いているという設定。冒頭の面接のシーンで、その欲望を叔父に抱いていると感じさせる。だが、同居する相手は幼い兄妹だ。何の問題もなかろうと思っている。
しかし、田舎の邸宅には秘められた謎があった。たったひとりの大人の男だった執事に心酔していた少年は、彼の死後、言動が大人びて、どこか挙動不審だ。
それだけでも怖いのに、更なる謎が追い討ちをかけてくる。それは主人公の前任者だった家庭教師の若い女性の存在。どうやら彼女も死んだ模様だ。でも、何故。
広い邸宅だが、現在は半分しか使用していない。それは何故か。また、何故、使用人頭は主人公を見た瞬間に、以前の方よりはお年を召しているが、お綺麗ですわ、と言ったのか。
そういった展開が観る側の心を凍らせていく。やがて、主人公のオールド・ミスは謎を解明するべく行動を起こすが、それが却って彼女の心の闇を際立たせていく。そして、彼女自身が追いつめられていく。
主役を演じるデボラ・カーが美しい。以前、ここで紹介した「黒水仙」(1946)同様、聖職者であり赴任するのも人里離れた場所。不思議な合致だ。しかも、尋常ではない展開になっていくのも同じ。イギリス女性特有の質素で知的なクール・ビューティーでありながら、どこか抑圧された淫靡さと、心の奥底に蠢く恋情の激しさが画面から匂い立つ。まさに適役と言えよう。
また、通常この手の作品では、亡霊は暗闇に現れるが、本作では、白昼に現れる。セオリーを無視した作劇に困惑した。そこに屈折した性欲を理性で封じ込めようとする主人公の恐怖に引きつりながらも色香漂う顔が複雑にこちらの中で渦巻く。
見進めていくうちに、ふと感じた。それは本当に亡霊なのだろうか、と。主人公だけが思い込みで感じ、見たつもりになっているだけではないのか。
観客にそう感じさせる作りでもある。だから、白日夢の具象化なのかと推察させられるのだ。主人公の心の闇が小さなシミから徐々に拡がり、やがて精神的に追いつめられていく展開に眼を見張った。
演出の上手さも感じるが 脚本の見事さが挙げられるだろう。なぜなら、脚本にトルーマン・カポーティが参加しているのだ。原作は未読なので差異は解らないが、主人公の精神が抑圧され、いびつに固まっていくのが、男色家の彼の屈折した心が反映されているのでは、と感じた。
ある場面では鳥の羽ばたきが聞こえるが、鳥はどこにも存在しない。だが、主人公が振り返ると、塔の上で逆光に浮かぶ男の姿が見える。見えるはずのないものが見え、 逆に見なくてはいけないものを見失う。
やがて、主人公同様、観客もどのシーンにも亡霊を感じるようになっていく。
内容や展開は異なるが、「雨の午後の降霊祭」(1964)同様、いかにもイギリスのモノクロ映画らしい、嫌な湿気と閉塞感にいつの間にか呼吸がおかしくなった。
両作とも有名な映画ではないが、人間の不安と恐怖感を抱かせ続ける佳作だと感じる。