スタッフ
監督:オットー・プレミンジャー
製作:オットー・プレミンジャー
脚本:アーサー・ローレンツ
撮影:ジョルジュ・ベリナール
音楽:ジョルジュ・オーリック
キャスト
アンヌ / デボラ・カー
レイモン / デヴィッド・ニーヴン
セシール / ジーン・セバーグ
エルザ / ミレーユ・ドモンジョ
フィリップ / ジェフリー・ホーン
グレコ / ジュリエット・グレコ
パブロ / ウォルター・チャリ
ロンバート夫人 / ジーン・ケント
ジャックス / デヴィッド・オクスレイ
日本公開: 1958年
製作国: アメリカ O・プレミンジャー作品
配給: コロンビア
あらすじとコメント
引き続きデボラ・カー出演作。中年キャリア・ウーマンの色香と隠微さが際立つ、世界的大ベストセラー小説の映画化。
南仏サントロペ、夏。17歳になるセシール(ジーン・セバーグ)は、別荘で夏休みを楽しんでいた。父親レイモン(デヴィッド・ニーヴン)と彼の愛人で、遊び人でセミ・プロのエルザ(ミレーヌ・ドモンジョ)も一緒だ。セシールの母は15年前に他界し、以後、父親は数々の女性と浮名を流し、彼女自身もどこか達観した娘だった。そんなセシールは、天真爛漫で玉の輿に乗ろうとしないエルザに好感を持っていた。朝から海へでて日光浴や海水浴を楽しみ、夜ともなるとカジノやパーティと日々、退廃的な時間を過ごしていた。
そんなある日、セシールは自宅近くの海の浮き台で大学生のフィリップ(ジェフリー・ホーン)と知り合った。母とヴァカンスにきているという朗らかな彼に興味を持つセシール。その日の夜、父がポケットに入れたまま忘れていた手紙を女中が持ってきた。それは亡き母の親友で、ファッション・デザイナーのアンヌ(デボラ・カー)が、避暑にやって来るという内容。
アンヌは洗練され気品高い女性だった。かつ、セシールにとっては昔、服の選び方や暮らし方まで教えてくれた、どこか人生の師のような存在だった。だが、アンヌは寝室が二つしかないのに四人で平然と過ごそうと言うレイモンに嫌悪感を示した。セシールも今までのような気ままな生活ができなくなるという不安感を抱く。しかし、そこは大人の女。すぐに、折角来たのだからとこの別荘で過ごすと笑った。
翌日から、てきぱきと仕切りだすアンヌ。そんな彼女に、レイモンの態度が急速に変わって行き、ついに彼女と再婚すると言いだして・・・
世界中でベストセラーになったフランソワーズ・サガンの原作の映画化。
だが、原作の18歳にして、どこか達観し、斜に構えたブルジョワ階級の多感な思春期の少女が大人たちを冷めた視線で見ているという雰囲気はない。それは演じている役者たちが醸しだす雰囲気と、意図的に原作のイメージ通りに作劇しなかった監督の演出法にある。
そのことはファースト・シーンから意識させられる。花びらや涙といったイラストが印象的なソール・バスのタイトル・ロールから、いきなり白黒画面でのセシールと父親の巴里での生活が映しだされる。シャンソン歌手のジュリエット・グレコが歌い上げるタイトルと同名のテーマ曲も、どこか重苦しい。デカダンスで退廃的な雰囲気が全開だ。しばらくそんな日常が点描され、一年前の夏の話に戻る。そこからがカラー。
つまり現在が白黒で過去がカラー。この手法は後にクロード・ルルーシェが好んで使った作劇法である。確かにパリは白黒のほうが雰囲気は伝わるし、真夏のサントロペはフルカラーが似合う。
俳優陣も、原作とはイメージが違うが、素晴らしい。中年のいやらしさと胡散臭さを醸しだすデヴィッド・ニーヴン。まったくもって何で生計を立てて暮らしているのか解らない真のヨーロッパのブルジョワの雰囲気が絶妙に漂う。中年女の色香が匂い立ち、キャリア・ウーマンとして成功してはいるが、どこか情緒不安定さを滲ませるデボラ・カー。若くて綺麗だが、父親をファースト・ネームで呼び捨てにするような、斜に構えたジーン・セバーグ。
そんな女優陣が着るドレスからヴァカンス服はジバンシーのデザインによるもの。
さり気ないが、見事で飛びっきりお洒落。また、撮影当時、18歳だったコケテッシュで中性的な魅力のジーン・セバーグが極端なショート・ヘアーで登場し、『セシール・カット』として世界中で流行した。
ストーリィ自体は、金持ちのブルジョワとして生まれたゆえに悩む思春期の娘の危うい感情と、それが巻き起こす悲劇だが、どうにも入り込めない。それは、自分は男だし、生来貧乏人というひがみ根性があるからだろうか。
海を見下ろす高級リゾートに別荘を持ち、乱痴気騒ぎに明け暮れて、生活感がまったくない人種。個人的にはここがアメリカの金持ちと違うという印象を受けた。五つ星の高級ホテルに泊まり、三ツ星のレストランで食事を摂る観光客でなく、いかにもスノッブといった人生を当たり前のように送れる人間。ゆえに背徳的ではあるが、そんな父親に影響を受ける娘。アメリカや日本で騒がれる『超セレブの何とか姉妹』とは、完全に一線を画している。
中でも、若い女性や中年キャリア女性までにモテて、タキシードから遊び着まで見事に着こなすデヴィッド・ニーヴンにばかり眼が行った。昨今流行の『ちょいワル親父』とは、根本的に違う男。若い頃は周りを見ながら普通に生きて、歳をとってある程度成功してから産まれた余裕とは完全に違う。
お恥ずかしい話だが、自分の若い頃の夢は、『世界で通用する遊び人』だった。ビジネスや社会で成功し、王者のように君臨することは考えてもいなかった。だが、再見した本作でのニーヴンの立ち振る舞いを見て、太刀打ちできないと感じ、更に自分の余生を重ねて悲しくなった。
ストーリィよりもヨーロッパという歴史ある人種の脈々とした流れを楽しむ映画と受け取った。