余談雑談 2017年12月16日

休日の午後。自室で珈琲でも飲むかと準備しながら画面を背にして、録画済みの旅番組を流していたときのこと。

内容は、栃木県から福島県までをローカル線で巡るもので、丁度、日光東照宮の場面だった。そこで、ナレーターが『三猿』の説明をした時、「見ざる」「言わざる」「聞かざる」と言った最後が『着飾る』に聞こえた。

一瞬、耳を疑い振り返ったが、普通に進行している。昔とは違うアクセントが主流なのか、それとも、聴力と理解力の劣化か。

偏屈なへそ曲がりとしては、「着飾る」や「盛る」という言葉は、どうにもネガティヴな印象に聞こえる。『見栄を張る』の延長線だからだ。

前にも何度か書いたが、「見栄」は『張る』ではなく、『切る』もの。確かに「切る」は縁起が悪いが、逆に、潔いとも感じる。

まあ、どの道、時代の潮流から、降りてしまっているので、こちらの価値観など数にも入るまい。

こんな性格だから、今や参加してない人間の方が少ないSNSの類も、一切していない。

尤も、これらは最初から入らなかったのだが。顔の見えぬ相手が、勝手に咀嚼し喧嘩を売るようなことになるだろうと思っていたから。つまり、当時から人間不信。特に見知らぬ他人には。

それでも、TV等から情報は来る。「炎上」とか「集中バッシング」は当然の流れだろうとも思う。

その中でキーワード的な表現は、特に嫌悪感を増長させる。「リア充」やら、今年の新語・流行語大賞「インスタ映え」など。

完全なる負け惜しみの妬みだ。今や、通信連絡手段は『LINE』が主流であり、「メルアド交換」など、ダイヤル式黒電話的な立ち位置になる日も近いだろうか。

でも、そういう現象だって、最先端ではなく、追従型だと思うが、そこは日本人、横並びに安心感を覚えるから当然かな。

そこで、ふと考える。逆に頑なに変えないと、何十年か経ったら、一周して最先端になるのかな。80年代バブルや、ファッション、音楽も然りだな。

もっとも、それまで生きている自信はないのだが。

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