スタッフ
監督:フェデリコ・フェリーニ
製作:ファッビオ・ストレッリ
脚本:F・フェリーニ、ブルネッロ・ロンディ
撮影:ジュゼッペ・ロトゥンノ
音楽:ニーノ・ロータ
キャスト
指揮者 / ボールドウィン・バース
ハープ奏者 / クララ・コロシーモ
組合監視委員 / クラウディオ・チョッカ
クラリネット奏者 / チェザーレ・マルティニョン
ヴァイオリン奏者 / ハインツ・クロイガー
ピアノ奏者 / エリザベス・ラビ
チェロ奏者 / フェルデナンド・ヴィレッラ
第一ヴァイオリン / デヴィッド・マウンセル
オーボエ奏者 / アンディ・ミラー
日本公開: 1980年
製作国: イタリア ライ作品
配給: フランス映画社
あらすじとコメント
今回もフェリーニ作品だ。交響楽団の練習風景を通してイタリアという国と国民性を際立たせるドラマ。
イタリア13世紀に建造され、18世紀から音楽会が催されてきた由緒ある礼拝堂。
そこにリハーサルのため楽団員たちが集まってきた。しかも、今日の練習風景はテレビのドキュメンタリー番組用に、インタビューを含む撮影が入ることになっていた。
三々五々集まってきた楽団員たちに早速、インタビューが始まる。他の人間たちは、各々が好き勝手なことをしたり、どうでも良い会話をしたりしている。それでいてカメラを向けられると自分の楽器こそ最高なのだという自慢話をしだす。
その上、組合員も多く指揮者の行き過ぎた強要がないようにとお目付け役までいる。
そこに指揮者(ボールドウィン・バース)がやって来て・・・
楽団員たちを通してイタリアの現状を描くドラマ。
タコをペットにしている者、湿度ばかり気にする者、ラジオのサッカー中継を盗み聞きする楽団員など、実に個性的で自己主張が強く身勝手な人間たちばかり。
なるほど音楽系アーティストは変人ばかりという風情。しかも交響楽の楽士なので、老若男女の集まりでもある。
ヴェテランはネクタイ姿だが若者はラフな格好で統一性はない。だが、共通するのは全員プロ意識が高く、自分の楽器がないと成立しないとか、逆に哲学的に楽器と会話するという者とか実に様々というか、雑多。
このように自己をハッキリと持った人間たちが、ひとつになり交響楽が演奏されるのだろうか。
そこに指揮者の登場で、いきなり演奏にケチをつけたり、止めたりと絶対王のように君臨しようとする。
その歴然と流れてきたシステムが、果たしてどのような化学反応を生んでいくのか。
当時、本作を見たイタリア人と会話したことがあり、彼らからすると楽団員たち各々に「方言」が見え隠れし、その地域の特性を持った自己主張として表現されていると。
イタリアとは日本の明治維新と、ほぼ同時期に国として統一されたが、それ以前は幾つもの独立国だった。
日本では戦国時代とまでは言わぬが、関東甲信越、東北、九州といった程度の規模が独立国であり、当然、地域によっては仲が悪かったりもした。
つまり、本作で描かれる個性豊かな楽団員たちは、その地域の代表であり、寄せ集め集合体としての「イタリア」そのものを表していると。
その上、本作製作当時には、既にいくつもの政党の連立政権でしか統治できず、離合集散の繰り返しで政権が運営されていることへの批判とも受け取れる。
更には、本作に登場してくるクラシック奏者としての自負がある老人たちは、リハーサルでさえネクタイを着用するという「伝統」を重んじている。そこには世代間格差を感じる。
他にも労働組合の権限が増し、体制側、この場合、指揮者の横暴というか暴走を許さないと監視用組合員が立ち会ったりしている。これは左派勢力の拡大だろう。
一般聴衆は演奏会での統一性のある衣装と見事なるアンサンブルで表現される芸術を鑑賞するために金を払うが、このような実態で果たして上手く行くのだろうかと実に、不安にさせる。
事実、政治なり、体制側と労働組合は常に紛糾し、落とし所など見つからないのが実情だとも感じさせる。
ラストの落とし所は、一体、何を意味するのかは観客の感性次第だろうか。
本作は元々TV用に制作された作品で、ゆえに上映時間も70分と映画としては短いので、いかにものフェリーニらしさを感じづらいだろう。
それでも、彼の政治意識と現況のイタリア人への警鐘を感じさせる珍しい作品である。