関東大震災から100年。
区切りも良いからかTVで震災関係の真面目なニュースを幾つも流している。東日本大震災から、干支がひと回りと約半年。確かに頻繁に思い巡らすことは自分でも減った。予測や想定は大事だからこの手の報道は歓迎だ。
ただ、自分には関東大震災と聞くと別なことが浮かぶ。何度かここで書いた祖父の実体験の話だ。明治生まれで発生当時は15、6歳。浅草寺参道である「仲見世」横の油問屋に嫁いだ叔母を頼って住込みで丁稚奉公をしていた。
震災発生時は大八車に様々な油を積み配達中。幸運にも上野の山の下を通りかかったところで、大きな揺れでこれは大ごとだと力を振り絞って大八車ごと駆け上ったそうだ。その時に「十二階」と呼ばれた『浅草凌雲閣』が崩壊するのを目視したとも聞いた。
その後10日間ほど行方不明になり、叔母さんはどこかで死んだんだろうと諦めていたようだ。そんな折、ひょっこりと大金を持って帰店。浅草方面は火が燃え広がり全滅と思い、その場で様々な油を避難民相手に言葉巧みに売り捌き、最後は避難で家財道具を運ぶのに必要だと荷車として大八車まで売り、まだ半分田舎だった田端の親戚宅に身を寄せていた、と。
凄い生存能力と商売欲。これだから『明治生まれ』は格が違うと揶揄された。今の「昭和生まれ」の呼ばれ方とは全く別物だろう。あれだけの震災を生残り、自分の父は父で第二次大戦の東京大空襲下の浅草で生き残った。その血筋の自分。強運の流れだと自惚れるのも当然か。その割には感謝が足りないし、徳も積んでないよな。
でも、祖父の最後の言葉は真似したい。明治生まれの遊び人でもあり、妻である祖母を早く亡くした後、長男である父と同じ年の相手を見つけた。そして子供らに迷惑を掛けたくないから入籍せず、代わりに小さな家を買い与え、他の遺産は一切放棄すると契った相手だと言い切った。後々の介護を視野に入れていた長男である自分の両親のみが反対しなかったが、他の兄弟は大反対。以後、疎遠になっていった。それでも祖父は全部自分で稼いだ金で、後々まで考えてのことなのに残念だとも直接聞いた。
そしていよいよ祖父の最後という時。数日意識が朦朧としていて子供らが来ても一切戻らず。それが、最期を看取ってもらうための彼女と自分の母親がいたときに意識が戻り、ベッドから起こしてくれと。何かの奇跡かと思ったが、祖父はこう言い放ったそうだ。「幸せだ、俺は幸せな人生だった」と。
それが最後の言葉。しかも眼前には二人の女性のみ。その血を引き継ぐ自分。でも、商魂も生存欲求も高くないんだよな。金も人徳もなきゃ、誰からも好かれはしないわさ。だから忌み嫌われる前に、こちらから人間嫌いとか言うのかもしれないな。
さて、今月は秋の彼岸もあるな。線香でもあげにいくか。