師走に入った。
とはいっても走らなくなって二十年強は経つ。というよりも元来が『師』と呼べる存在ではない。つまり走ることには関係ない人生だった。
体感的には「冬」のイメージもなく、朝晩の冷え込みも東京はまだまだてな感じである。ところが、経済活動的には様々に喧噪し始めた。クリスマス商戦だって然りだし、衛星放送でも「年納め〜〜大会」と連作映画を一挙放送するとか。
それにしても暫く振りに『年納め』という言葉を見た。仕事納めは今でも使うが、と。一度キチンと終らせて、また一から始めるてな意味もあるのだろうか。
確かに年は重ねつつ始まる。しかし飲食店等は別だ。個人的に好きだった飲食店も閉店が加速度。
地元のお気に入りだった最後の食堂も先月一杯で77年の歴史を閉じた。オバサン一人の切り盛りだったが、本人はまだ続けたかったようだが周囲の立ち退き決定から抵抗しても仕方ないと。
防災等の見地からもあろうが、ある程度土地をまとめて再開発。人口は減る一方なのにである。誰のための再開発なのだろうか。地方同様、都心でも「隙っ歯」のように空き地を作れよと思うのは経済活動に懐疑的な性格ゆえだろうが。
きっと自分の立場なり価値観を変えたくない人もいるんだろうな。まあ、確かに自分も同じだが。
一方で人間自体が変わっているとも痛感する。特にSNSでの匿名性での煽りや正論も自分の意識改革よりも圧倒的加速度で変化している。
自分だって若い頃は明治生まれの頑固者め、とジジイたちを揶揄したが、今やこちらが言われる立場だ。
呼称も変わった。自分が成人するかしないかの頃は「最近の若いもんは」が、「もやしっ子」、「頭でっかちの火星人」、「頭がピーマン」と。それが今は、それも個性で揶揄してはいけないと言われる。
常々、自分は変わり者だと思っていたが、今やそれも個性と認知されたのか、かなり年下でも似たような言動を発する人が登場してきて、今やマイノリティーでなくなった感もある。
ある意味、恐ろしい。自分は変わっていると公言してしまっているので、バズるや炎上とかは己への恐怖のリバウンドになるんだろうなと捉え、先読みしつつの表現を心掛けるのが前提にもなった。
だが今風な発言は、行動なり実体験の伴わない、つまりバーチャルではない『心も体も痛い』という、できれば若いうちに幾分かでも経験はしておいた方が良い人間の基礎が疎かゆえの所業なのだとも思える。
まあ、無理することも我慢を強いられる事もない人生しか歩んでこさせてもらってないのであれば致し方ないんだろうが。
それが既に、孫に至る三世代に渡れば、その家族らは大勢的正論というか、何が間違いかも気に留められない流れになるのだろうし。
だから思いやり的な慈しみは宿らない。否や、知らぬ振りをしていないと逆に攻撃されるのだろうか。
季節が進み、乾燥も進む。精神的枯渇感ぐらいは意識して感じて欲しいものだ。