今回の都々逸。
「逢いたさ六寸 見たさが四寸 それが積もりてしゃくとなる」
今じゃ聞かない『尺貫法』。これの存在を知らないと、今日の都々逸は理解できないだろうか。
東アジアで使用されてきた単位系たが、日本では昭和の時代で消えた名称。長さの単位で、「一寸」が十で「一尺」。
このように、数を足したり引いたりする都々逸も幾つもあるが、その内に。
今日のやつは、お妾さんか愛人が読んだものだろうが、好きでも簡単に逢えないから、好き過ぎて嫌いというか、憎らしくなるのでしょうな。
それが「日陰の身」であり、そもそも都々逸は、その手の人たちが読んだ負け犬の美学的な表現法。短歌や和歌と違い、格調高くはない。昨今はサラリーマンやジジババが自虐を読むので有名な川柳よりは文字数が少し多い。
それでも文字制限があるので色々と考えたりするので頭の体操にもなっただろうか。
そう考えると、現代の『つぶやき系』も同じかもしれない。ただ、違うのは酔った勢いで呟きをアップすると結果、それが一生消せない事態になり、黒歴史になる。
やはり便利とはマイナスと背中合わせ。都々逸のように、人に広めるには「即座」ではなく、一定時間頭を冷やしてから投稿なりした方が良いのかもしれない。
それが今日のではないが、我慢が積もってあらぬ方向に心が向かう。まあ、今なら、そこまで思い詰めるより、簡単にあきらめて別に心が動くのか。
もしくは、そんなに他人を好きで思い詰めなくなっているのか。すぐに「デリート」。
だから我慢を強いられる日陰者の挽歌的な都々逸など、存在も忘れ去られがちなんだろうな。
だって知らなくたって生きてはいけるもんな。人生にスパイスが必要かどうか、だけの問題だし。
それだってスパイスは沢山あるしな。