今回の都々逸。
「膝が重さを知ってるものを もとに戻せる知恵もなし」
ひざ枕で耳かきでもしてあげたのか。それとも午後のうたた寝。夏なら団扇であおいであげてたりもして。
その両方かもしれない。どの道、終わってしまったこと。思い出に浸り、残り香をかぐ。否や、無くなった重さを知る。
今でもこの風情を愛おしく感じて当たり前にする人もいるのかな。だとしたら憧れる。
イメージとしては和室の畳の上だが、カウチでも電気のホットカーペットなどでも可能だよな。ただし、安心して身を委ねられる相手がいてこそ。
まあ、ひとりだって団扇で仰げるし、耳かきだって出来るし。でも、「耳かき」はしてはいけないというのが通説になっている。
確かに、あのくすぐったい感覚やら注意深くしないと痛いという恐怖感が相まって何とも刺激的だが、内部の垢は勝手に出てくるから、自らするもんじゃないだと。
確かに安全第一だし、今日の都々逸のように安心している相手でないともっと怖いかもしれぬ。
まあ、そんな考えが先に浮かぶからひざ枕などしてくれる相手がいない人生だったんだろうよ。ましてイメージだと、古女房殿ではなく若い愛人か妾だし。
そう考えると相手から忘れられない存在にもなり得なかったということ。所詮、市井の人間で記憶に残らない。
考えようによっては、先に目立とう精神ありきで突っ走って、転んでから知恵も付き、忘れてくれというのも虫が良すぎるかも。
特にSNSが全盛で、つぶやいてからデリートは出来やしない。でも、不思議だ。すぐに消しても、誰が一瞬にして目ざとく見つけて拡散させるのか。
やはり怖い時代だ。詐欺に引っ掛からないのと同じ論理で大人の自分で防衛し言動するしかない。何が正解かなど法律に違反しなきゃ大体は良しとするかという論理だって通用しない時代だ。
でもな、昼下りにこちらがひざ枕をしてもらい見上げると微笑む相手がいるなんぞ、赤子返りしたようで安心感に包まれるだろうに。
おっと、これだって今の時代はけしからんということになるんだろうな。