今回の都々逸。
「いやな座敷にいる夜の長さ 何故か今宵の短さは」
今回扱った映画のヒロインが芸者。なので、花柳界の芸者が詠んだものしてみた。
水商売や接客業の女性なら今でも、前半部は思い当たるフシがあるだろうと推察。事実、かつて見栄を張って良い顔しようと高級な店に出入りしていた。そこで、その手の愚痴を聞かされたことが何度もある。
それが有名芸能人やスポーツ選手だったりしたから興味深くもあった。ハードでストレスの溜まる仕事の連続だから、致し方ないのかとも思うし、大枚払って発散するんだろうからと思ってもみた。
それでも、こちらも善人ぶって同情したり、励ましたりと頑張ってもみた。当然、下心ありきだったが。
で、この都々逸の後半はどちらかと考えた。つまり大好きな人がいてくれるだけで時が過ぎるのが早いという意味か、フーテンの寅さんのような愚痴を聞いてくれて、且つ向こうを楽しませてくれる客か。
自分だったら、前者が良いと思うのは自惚れが強い証拠だろうか。それなのに都合良く転がらないと思い知らされる連続でもあった。
そもそも愚痴や文句を聞かされるこちらが金を払っているんだから、と。こういうところで「ウィン・ウィン」とはならないから水商売は廃れないのだろうな。
本当は女性側を楽しませるのが大人の嗜みと遊び人の先輩から教わったが、やはりそこまで大きな男にはなれなかったということでもある。
まあ、昭和の時代だったしね。だから「見栄は張らずに、切るものだ」とかも教えられた。前提に『江戸っ子たるもの』ということわりが入るが。
もう20年以上も前のことだし、個人的には大金をドブに捨てた思い出だ。確かにチヤホヤはされた。そのための大金というか、高い授業料。
結果、何が残ったか。会社を清算し、友人知人の善意でフリーで映画評を書いてみたり、編集のアルバイトなんぞしてみた。とはいえ、非正規の最たるもので給金はごく僅か。安くても、その手の仕事がしたいと手を挙げる人もいるから雇用側の使い勝手の良い人間ばかりが残る。
作家や漫画家、イラストレーターで飯を食って行ける人間は非凡であり、それこそアイドルとして売れるよりも少ないだろう。なので『自称』が付く。
自分は『元』である。仕事をくれた人たちも全員が退職した。そもそも若手正社員には、当時からヴェテランは使い勝手が悪いと敬遠されていた。自分なそ、間違いなく面倒臭いタイプだったし。
で、隠居生活が現在の身の上。都々逸本を見ながら、ここでの選択するのが関の山。結局、お座敷遊びは生涯できないんだろうと思うとあの授業料は何だったのかと大きなため息。