スタッフ
監督:柴野太朗
脚本:柴野太朗
編集:柴野太朗
撮影:中谷駿吾
編集:井上湧
キャスト
フミヤ / 守利郁哉
アキオ / 大石晟雄
ユースケ / 竹林佑介
コバヤシ / 小林哲也
つかさ / 杉山つかさ
フミヤの妹 / 樋口アイリ
フミヤの父 / 安部敬太
フミヤの母 / 安部直美
面接官 / 中嶋莞爾
大橋さん / 豊嶋梨那
製作国: 日本
配給: モラトリアム・カットアップ製作委員会
あらすじとコメント
映画監督の登竜門であるPFF(ぴあ・フィルム・フェスティバル)での入賞作品。小品ながら、自分のような高年頑固者の代弁として拍手を送りたい作品。
東京
2011年7月24日。この日をもってTV放送はアナログ放送が終了し、地上デジタルに変わった。
その瞬間をたった一人の部屋でブラウン管画面を凝視しつつ迎えたフミヤ(守利郁哉)。12時を境に画面は俗にいう嵐の状態になった。それでも画面を凝視するフミヤ。
そんな彼は小学校時代から何とはなく一緒だった三人の友だちとつるんでいた。特段クラスや部活が一緒でもなかったのに本当に何とはなくで共通の趣味や話題もないが、それでも高校時代は他人の家のドアチャイムを鳴らし逃げるという「ピンポンダッシュ・ゲーム」を8ミリビデオ撮影しながら肝試し的に楽しんだりもしていた。
そんなフミヤたちも年を重ねると・・・
成人への端境期で戸惑うよりも妙に頑固さを維持する人間の心境を覗く作品。
周囲はそれなりに社会情勢や成人的感情に変貌していくが、頑なに自分は「アナクロ人間だ」と変化を受け入れない主人公。
否応がなく時代の進化で「地デジ」に強制変更されることを嫌う。しかし、だからといって反乱や反抗をするタイプでもない。それでも彼なりの矜持があり、世はPCや携帯電話が主流になる中、ポケベルのみで生きて行こうとする。
10代の内は仲間に彼女が出来てイチャイチャしても、我関せずのスタンス。いつもたむろする喫茶店で、たわいもない話を井戸端会議の如く繰り返す。どこまでが思春期で、何が思春期なのか。
何せ、友人らは彼のことを決まってクサす癖にいつも一緒にいるし家族仲も悪くない、ごく平凡な主人公。
しかし、独白によるナレーションは秀逸。友人に「アナログ人間」と言われると「アナクロ人間だ」と言い直す。周囲はそれなりに時代に適合というか、迎合していくが、主人公は頑なだ。
高校時代の悪戯から大学、就活、社会人一年生になっていく間にどれだけ時代が早く移ろうが、家族の団欒がPCやスマホなどで会話が一切消え、家族といえども他者に無関心になる。主人公は当然おかしいぞと怒鳴り、寂寥感に苛まれる。
それは友人らも同じで頑固者の主人公がいつの間にか弾かれていく。ただし、それは主人公が一切メール等の交信手段を拒否してきた結果、つながりが消滅していっただけの話なのだ。
地元の風景も変貌を遂げていき、主人公はこう独白する「公園はマンションになり、ファミレスは駐車場に、そしてこの空き地は前が何だったか思い出せない」と。
社会人となり着慣れないスーツ姿で帰路につくと駅から続く商店街で『夕焼け小焼け』のメロディが流れると妙な絶望感が漂う。
嫌が応がなく変化を強制され、そのうち無意識に流されていく人間たち。
敢えて昭和的ファッションや老舗喫茶店など意識的に登場させ、主人公の妄想を具象化して、「そんな映画みたいに上手く行くわけがない」と薄笑いを浮かべる。
まさしく自分と同じ価値観で、頑なに変えないことがどうなっていくのかと突き放すでもなく、寄り添うでもなく描かれていく。
それらを38分という短い中で、「子供と大人との間でウロウロしている状態」たる『モラトリアム』を描破し、そして編集による「遊び」、すなわち『カットアップ』として描いていく。
何よりも驚いたのは監督の柴野太朗が撮影時23歳であったということ。1992年生まれということは平成4年生まれ。つまり昭和の残り香は若干はあっただろうが、直接知らない世代。
それなのに、まさしく自分がそうであったように『背伸びして大人ぶりたい』が昭和の思春期男児の当然という価値観を強く放っていることに驚いた。
それを逆手に取り、時代に逆行ではなく、敢えてある時期で全身全霊で踏みとどまるのである。しかし、それを他者に強要しない。
ただ、自分がどこか斜に構えたというか、後ろ向きで生きていくことが何とも頼もしいと感じた。
ただし、それを通して続けていくことは自分よりも加速度的に排除対象にもなるだろう。
憧れなのか、揶揄なのか。それでも2015年にこの作品を世にだした功績は評価に値する。


