今年最後の発行です。
もう一年経ったのか、早いなと感じるか流れ的に通常通りのイメージだったかなとか。大きな視点だと元旦の大地震、翌日の羽田の事故と嫌な幕開けと感じた人も多かったに違いない。
こちらは政治家や宗教家でもないので見ず知らずの人に善人ズラするほど人間が出来てないし、結局、大事なのは自分と周囲の仲間ぐらいというのも実に情けないが。
一応、振り返ると旅関係では沖縄には行けなかったし、熊鍋も新規開拓が必要になったみたいだしと、アレレということが浮かぶ。
一方で仲良しオジサン三人で美術館巡りと旨いもんを食す旅が始まったりと行って来いで悪くはなかった。
ただし、不安材料は越年する。PC購入の手配から至急での修理命令をしていた元地元の後輩が還暦目前で急逝し、何か起きたらどうしようかと。他にもお気に入りの飲食店の閉店には加速度が付き、閉口と落胆しきり。
店に関しては長年通えたことが自慢の経験値か、それとも逆に様々食して自分の口に合うものなんぞ見つけられなかった方が幸いだったのか。
味覚の比較対象がファミレスやチェーン店、ファストフードとかだけで成人し、料理好きになるよりも仕事に励み、スーパーの惣菜で充分満足という価値観が幸せなのかもよと思うべきなのか。
それこそ祖父や父が口を酸っぱくして言っていた戦後の貧しさと比較して食べられるだけで幸せ以外の何ものでもないと感謝しろとか。確かに悲惨な食糧事情下でも生き残ってきた人間の言葉は、自分のようなイメージだけで偏見的盛り方をするタイプとは違う重さがあった。
ならば自分も年末で一度区切り的反省をするべきか。すぐに思い浮かんだのは「諦念」。
でもさ、諦念とは期待や希望があったから。結局、うだうだと過ごしてきたのは間違いない。その因果かどうか、年末にきて大したことではないのだが細々というか、小さな不運が連続中。
とはいっても寒暖差による肉体的なことや、年末へのカウントダウンなのにやる気がでないといった気持ちの問題、尤もこれは通年だが、ではなく家具や機材の一部破損の連続。
間違いなく経年劣化の結果ではある。だが、劣化は解っていて毎回注意すれば済むのだが、自分の注意力緩慢で力加減の入れ具合からの破損。
そういえば難聴傾向も感じるし、胸焼けの頻度が上がったなとも思い及ぶ。これは大きな不幸へのカウントダウンかとか、それとも注意せよという喚起か。
それが解らぬ。昔はよく父が言っていたが、小さな地震が連続すると、これで暫く大地震は起きないに違いないという迷信を、親が言うのだからと結構信じていた。
それと同じ発想かな。他力本願的ポジティヴ思考。否や、想像力の欠如に舞い戻る。
向上的志向性も経年劣化。では、油を差すのか、ネジを巻くのか。
ま、ケ・セラ・セラだよな、やっぱり。
今年もご愛読、誠に有難うございました。来年も通常通りの1月4日土曜日から発行予定です。
読者の皆様に於かれましては、どうぞ心穏やかな年末年始をお過ごしくださいませ。