当たり前が贅沢と知り反省も必要と知る。
地方発の番組で現地の新たなるスポットとしてリニューアルされ、フードコートができたデパートを紹介していた。
お洒落なカフェから、地元名産品を使かったスイーツなど、成程現地ではなかったであろう店を経営者等にあれやこれやとインタビューしていた。
ただし、薄らヒゲに長髪、色の浅いサングラスといったいかにも水商売系な人物で苦笑。これも全国的なスタイルかと。
出演していた紹介者は「ここは良いね。東京に行ったみたいだ」と発言していた。確かにオシャレで東京の流行発信地的な場所にありそうな店舗ではあった。
自分もその地を訪れた際に、時折顔をだすスポットなので次回のこともあると興味深く見た。
それでもフードコートなどはどこも同じ作りだし、会社員経験もないので社員食堂もほぼ経験がない上、家族連れから外人観光客までいる中で和洋中の雑多な匂いが充満するのはカオスだと感じて、苦手な印象。
そこで、ふと思った。自分は何と贅沢な生活がベースなのだろうかと。嫌でも、車で行かなければそれなりのファミレスや飲食店がない場所で暮らす人間は選択肢は限られる。
戦後から脱却しつつあった下町の活気溢れる場所に生まれ育った自分。老夫婦が営む洋食屋から、それなりに従業員がいて出前までこなした中型店、大型店は和洋中とフードコートの走り的店舗が雑多に存在し、それこそ選び放題。
選択肢が子供時代から多くあったわけだ。ただし、オシャレ系やアジア料理に創作和食などはなかった。
それでもある意味、選び放題なので自分の舌の、つまり味覚のベースが形成された。
それが当たり前であることがどれほど贅沢であったのか。その反動からか、変貌していく新たな東京が大嫌いで、昔の風情が残る地方に行きたがる。
そういう地方も東京に追いつけ的発展を遂げる。住んでいる人には、わざわざ東京に行き、行列までして有難がることもなくなる。
一方の自分、ない物ねだりというか、何でも当たり前に存在する東京に生まれ育っていることを有難がれということなんだなと反省しきり。
でも、地元観光地の変貌を定点観測で何十年と見て来たからこそ絶望するのも事実だろう。
何でも新しければ良いという。確かに江戸っ子は「新し物好き」と昔から言われてきた。
『初物は東向いて喰え』とも教わった。それは照らしたり育成させる太陽に感謝しろという意味だそうだ。
確かに今でも太陽は東から昇る。これは未来永劫変わらないだろう。
それでも、やはり新しければ良いばかりでもなかろうとも思う。経済が活性化しないと景気も良くならないし、超便利も頓挫する。
中々、全部がウィン・ウィンとはいかない。まあ、人類は超便利さと経済成長の優先度を加速させ、灼熱地獄まで助長しそうだ。
何かを得るには何かを捨てる。ならば空調の中で過ごせる快適性を優先するなら、自分が捨てるのは過去かね。
どうせ、思い出は味覚を助長はしてくれないし、今風の味付けにうなだれるか。


