真昼の決闘 – HIGH NOON (1952年)

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スタッフ
監督:フレッド・ジンネマン
製作:スタンリー・クレーマー
脚本:カール・フォアマン
撮影:フロイド・クロスビー
音楽:ディミトリィ・ティオムキン

キャスト
ケーン / ゲーリー・クーパー
ヘンダースン / トーマス・ミッチェル
ベル / ロイド・ブリッジス
エミー / グレース・ケリー
ヘレン / ケイティ・ジェラード
ホー / ロン・チャイニー
メトリック / オットー・クルーガー
フラー / ヘンリー・モーガン
コルビー / リー・ヴァン・クリーフ

日本公開: 1952年
製作国: アメリカ S・クレーマー・プロ作品
配給: ユナイト、松竹


あらすじとコメント

前回の「リオ・ブラボー」(1956)と対極にあり、以前は比較評価された西部劇。当時としては、斬新な設定の異色作。

アメリカ、西部の町ハドレイヴィル。この町の治安良化を作り上げた保安官ケーン(ゲーリー・クーパー)は、若いクェーカー教徒であるエミー(グレース・ケリー)と結婚式を挙げ、職を辞した。

しかし、かつて彼が逮捕した暴れ者ミラーが釈放され、弟や仲間と一緒にケーンを殺しに来ることが分かった。町民は騒然とし、ケーンに、すぐに町を去るように伝えた。

新妻のエミーも退去を薦めるが彼の正義感が、それを許さなかった・・・

映画史上に名を残す異色西部劇の秀作。

かつて女子供が昼間でも出歩くことが出来なかった町を、見事な力でねじ伏せ、明るい町へと変貌させた保安官。その実力は誰もが認め、信望も厚い男。

自身の力で平和にした町で、美しい女と結婚式を挙げ、新天地を目指す。そこへ保安官に復讐に来る無法者たち。

「西部劇」では、ありがちな設定だ。しかし、本作はそこからが当時としての王道とは全く違う趣を示すのだ。

その保安官は己の正義感ゆえ、踵を返し町に舞い戻る。本来であれば立派なヒーローの姿である。ところが、そのことが町民たちに波風を立ててしまう結果となる。

そもそも主人公を取り巻く設定も、以前までの王道の単純明快で、明朗な西部劇とは違い、中々、考えられている。

先ず、彼の新妻が「クェーカー教徒」ということが挙げらる。キリスト教と違い、他人を殺傷しないことを信条のひとつに掲げる教派である。当然、新妻は一緒に逃げようと進言する。それが通らないと見ると、離婚まで考えるような真面目な性格だ。

そして、若くて腕も立つ保安官助手がいるが、彼の恋人は一年前に主人公と別れたメキシコ女。当然、保安官にコンプレックスを持っているが、若さゆえに実力は彼以上だと過信している。しかも、主人公は後任に彼を指名せず、新たな保安官を任命していた。

その保安官が着任するのは明日。そのことも気に入らない助手の若者は激昂し、職を辞してしまう。

このあたりから見る側に不安感が増幅されだす。中には、復讐に来る無法者たちを「友人」と公認する人間も存在する。

民主主義としては当然の帰結であり、それこそが「個人の自由」でもある。

主人公に復讐を誓う男は、正午に町外れの駅に列車でやって来る。仲間たちは、その列車を待っている。

主人公は腕は立つとはいえ、既に中年である。そんな彼は、昔と同様、自分に協力してくれる仲間を集めようとする。当然、協力者が現れると信じているのだ。確かに、町の平和は彼のお陰だと言い、すぐに、ひとりは協力を申しでる。しかし、他の連中は違うのだ。

そこに、本作までの西部劇とは、まったく違う展開が待ち受ける。映画は、残された時間と一致して進行していくという展開である。しかも印象的に、列車到着の「正午」までの残り時間を示す時計が映しだされ、主人公の焦燥感を際立たせて行く。

娯楽西部劇ではなく、『人間ドラマ』を兼ね備えた『社会派サスペンス』として進行して行くのだ。

主人公のお陰で、平和に暮らせる近代的な町になったが、それが当然の生活となると、今更、旧態依然とした銃による武力制圧という、時代に逆行するシステムが煙たくなる。

そこには町民それぞれの個人の価値観が横たわる。正義のためには武力に頼るし、皆が協力して平和を勝ち取るという『開拓者魂』に疑問が投げかけられ、それまでの「正義」が孤立して行く。

それをアメリカ国民が熱狂的に支持した「西部劇」というジャンルで問題提起していく。

そんな本作に真っ向、異を唱えたのが、前回紹介したハワード・ホークス監督とジョン・ウェイン主演による『仲間』を強調した「リオ・ブラボー」(1959)。

その見事なまでの喧嘩の売り方。ある意味、当時のアメリカ映画の両極端を示す二作品である。

確かに今見ると、本作の方が、余程リアリティがあるだろう。それほど自由が当たり前になったという証左かもしれない。

しかし、どちらも「映画」としては素晴らしい出来である。ただし、通常の人間の人生同様、本作は息苦しく、スカッとするような爽快感は得られない。

だが、映画とは、そのどちらをも表現する娯楽であり、芸術である。「リオ・ブラボー」と本作を見比べるのも一興かと思う。

ここで扱うので、久し振りに本作を再見したが、一番興味深かったのは実は、後年、B級西部劇の雄となるバート・ケネディ監督のコメディ要素の強い作品群で活躍する役者がでてきたこと。御贔屓俳優のひとりであるジャック・イーラムである。しかも、息苦しい本作で、唯一のコメディ・リリーフ的チョイ役でニヤリとしてしまった。

余談雑談 2011年11月26日
噺家の立川談志が死んだ。 自分など、映画ばかりで、落語をほとんど聞いてこなかったが、それでも型破りな御仁という印象はあった。 様々な情報番組で追悼的な特集が組まれているが、個人的に、直接、父から聞いた話がある。 彼が参議院選挙に出たとき、選