見えないものは見えない。
何度かここで書いているが『気』という存在。あるには間違いなくあるのだろう。
「空気」「電気」とか。無きゃ困るものでもある。
かといって幽霊の類とは違う気もするが。ほら、これも「気」だ。
まあ、気にも色々あるけど。今更、自分としては欲しくないとか、重きを置かない気もある。「本気」とか「やる気」とか。
「気の置けない」「気の休まる」だって人生から降りたと、どこかで思っているので普通になっている。
ところがこれも加齢からか少し鈍感になったのは「気にする」「気にしない」。大らかに考えれば「くよくよしない」とも取れなくもない。
ただ、自分的には『無関心』になったが真っ先に浮かぶ。見ず知らずの他人がどうなろうと知ったこっちゃないと。
東京なんぞにいるとあちらこちらで他人もそうなんだろうなと思うことも多くなった。
自己主張ゆえの跋扈でもなく、存在自体が希薄と思われているというか、影の薄い印象の方など平気でぶつかられたり、逆に避けない男性は「ぶつかりおじさん」と呼称されたり。
でもそれって、もしかして自分がスマホなど見ながら歩いてくるとか、友人と仲良く会話を楽しみつつ横並びしてくるのは分かるよね。だったら、相手が避けろという上から目線の発想じゃん。
何とも、どうにもトラブルに発展しそうな気もするのは自分だけだろうかね。それとも、そんな発想すら浮かばないのか。
その手の増殖は、自分らの責任というか、事なかれと逃げて来た結果に違いない。
逆にこちらが大人として恥ずかしくて消え入りたいと思うべきなのか。
そこでまた思い浮かんだ言葉。『気配を消す』。
ところが、この言葉は少し違うイメージが拡がる。だって気を配るってことでしょ、と。
昔、某国営放送の人気キャスターが著した本で「気くばりのすすめ」というのがあった。処世術としての教科書的な本。
気配りどころか、「気にならない」とか「一々、気にもしない」人が増殖したけど。
見えないことに留意する。行間を読むと同様か。
そんな前時代的発想の価値観なんぞ存在自体を知らぬし、その方がストレス・フリーでラクとか。
静かに余生を楽しみ、消え入りたいと思う達人もいらっしゃるか。となれば気配をなくしていく。
ところが、これまた自分変換だと違う。配るものを失うと「気がない」となる。
これは「好かれてない」になり、落ち込んで生気がなくなるにも通じるか。
否や、それぐらいで迷走するのは正気の沙汰じゃないとか。
でも、それであきらめがつくなら、気の迷いもなくなるか。
何だかんだと堂々巡りで、これからやって来るのは湿気の季節。
何だかな。


